「京都・総合地球環境学研究所との合同研修」報告 宮田 晃碩

「京都・総合地球環境学研究所との合同研修」報告 宮田 晃碩

日時
2019年2月3日(月)、3月18日(水)-3月19日(木)
場所
京都府京都市北区上賀茂 総合地球環境学研究所
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」 教育プロジェクトH「生命のポイエーシスと多文化共生のプラクシス」

今回の研修は、2月に東大駒場キャンパスで行なわれたワークショップと連続した企画である。2月のワークショップでは、地球研の熊澤輝一さんから「人工知能がある時代の人と自然との関係を問う」というタイトルでお話を伺い、「技術」「自然」「人工知能」等のキーワードをめぐって対話を行った。今回3月の訪問では、その続きとなる議論およびIHS生による発表が予定されていたものの、諸般の事情により所外での研修に予定を変更して行われた。以下、それぞれを振り返りながら考えたことを記したい。

熊澤さんのお話の基礎を成していたのは、「環境問題などについて考える際、人と自然とを別個に分けて考えるべきではない」ということ、そして「人と自然との媒介となるのは技術である」ということであった。この「技術」について「参加型で築く」ということが、熊澤さんの目指すところである。技術の発展というものは、いまやほとんど時間経過に伴い自然に展開する現象のようにも思われ、実際そのような傾向も観察されているのだが、しかしそのなかでわれわれ自身はどのように自己決定するのか、ということが問題として迫ってくる。そのための「技術」をも開発しなければならない、ということが熊澤さんのお話の中心的な動機だったと思う。ここで「人工知能」という要素はおそらく、われわれにとっての事実的な所与、それに否応なく向き合わねばならない条件でもあろうが、同時にこの自己反省的な「技術」を構成する、あるいは補助するものでもあり得るかもしれない。そうだとすれば「人工知能」とは、単に一定の機能を果たすものとして期待を寄せたり、あるいは逆に人間的活動の意義を脅かすものとして畏れたりすべきものではなく、むしろそういう「期待」や「畏れ」を抱くわれわれ自身の存在の一部として考えられねばならないだろう。「人工知能」の何たるかを自明のものとして前提することはできないし、さらに「われわれ」の何たるかを自明視することもできないのだ。

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それゆえここで、そもそも「技術」とは何であるか、ということを考え直すことが、一つの導きに、少なくとも自由に考えるための重要な手がかりになるだろう。その名も『技術への問い』と題された講演論文においてハイデガーは、「技術Technik」についてのわれわれの常識的な見方を覆そうとする。技術というとわれわれは、人間があらかじめ目的をもっており、その目的の実現を助けるためのものとして考えたくなるかもしれない。このときわれわれは、技術をいわば人間に服するものとして考えている。つまり人間が技術を管理し、使いこなし、場合によっては放棄できるのだと。ハイデガーが指摘するのは、このようにわれわれが考えるとき、われわれは実は技術に支配されているのだ、ということである。技術を正確に管理しよう、使いこなそうという考え方は、それ自体が既に「技術的」だというのである。たしかにわれわれは、技術の厳密な管理を求めるとき、それを管理する人間をも正確に管理せねばならない、と思ってしまう。それは至極真っ当なことでさえある。だがそれは実のところ、人間が逆に「技術」に支配されてしまっている、ということなのだ。

ではわれわれは、技術から距離を取り、われわれ自身の自由を確保したのちに、もう一度便利なものとして技術を扱うべきなのだろうか。いわゆる「啓蒙」の理想は、そういう道行きを推奨するだろう。われわれ自身が十分に賢ければ、技術の陥穽に落ち込むことなどないのだ、と。だがハイデガーは、そういうことを言うわけではない。むしろ「技術」によって生きることは、われわれ人間にとって本質的なことであり、そこからいったん離れて人間の自由を確保するなどということは考えられない、といった立場を示す。ハイデガーが目指すのは、技術からの自由ではなくて「技術との自由な関わり」であり、言ってみれば技術の別の可能性を探求することなのだ。私はこれが、単に西洋哲学の典型的な発想(理性の自律)の裏を掻き意表を突くものというのではなく、われわれ人間の条件を正確に見据えたものであると思う。というのは、われわれ人間は実際のところ、何がしかの「技術」によって環境に関わりながら存在しているのであって、そこで様々なものを発見したり自分自身に気づいたりするという以外に、存在のしようがない、と考えられるからである。技術とは、根本的な意味では、存在するもののあらわれてくる出来事だ、と言えるように思われるのである。それをハイデガーは、「存在の命運Seinsgeschick」などと呼んでいるのであろう。

とはいえ、このように考えると、本来考えようとしていた「自然との関わり」という事柄がいかに難しい状況にあるかが際立ってくる、というのは確かである。われわれはそれを、技術との関わり抜きでは考えられないだろう。客観的な自然科学ならばどうか、と思われるかもしれないが、むしろ自然科学自体が、まさに技術的なものによって可能になっているのだ。さてそれではいっそ考察の対象を技術に絞ろうとすると、自然というものはいよいよ後景に退いてしまう。熊澤さんのお話のなかで私がわずかに感じた違和感は、「この話のどこに「自然」があるのだろう」ということだったのだが、それは必然的なことだったのかもしれない。そのときは、自然を「技術によって利用されるもの」としてだけでなく、むしろ「技術をもって生活している人間を、意想外に襲うもの」としても考えることが重要ではないか、という話が交わされた。注目すべきは、それによって自然が技術と離れたものとして考えられるというより、その「技術を超えて襲ってくるもの」としての自然に対峙するような振舞い(例えば「祈り」など)が、また別の「技術」としても捉えられるかもしれない、ということである。このようにして「技術」の範囲を広げて考えることが、ひとつ重要なポイントであるように思われる。

今回3月の研修で訪れた今宮神社では、毎年「やすらい祭」が行なわれている。これは疫病を鎮めることを本旨とした祭で、平安時代から続いているとされる。神社でお話を伺いながら興味深く思ったのは、神社が「とにかく人が集まる」ための場所として機能してきた、ということであった。疫病が流行れば、われわれは多くの場合接触をさけようとするだろう。いま問題となっている新型コロナウイルス感染症の対策もその典型例である。そして病に絶えずつきまとうのが差別である。これに対して「祭」がどのような働きをしてきたかと考えると興味深いのだ。おそらく祭は、病の流行を防いだり、罹患者を治療したりすることに役立つわけではない。それどころか、人が集まり賑わうことによって、感染率は上がるのではないかとさえ思われる(ちょうどコロナウイルス対策として、各種イベントは自粛が求められている)。しかし一方で、人々の分断や孤立を防ぐ機能があるのではないか。単に集まることによってだけではない。病の原因を疫神に求め、人々が混然一体となり共に祈ることによって、「隔離し管理すべきもの」という病のイメージは遠のく。代わりに「われわれが共に苦しんでいるもの」として病は受け止められるようになる。これはひょっとすると、人々のある種のレジリエンスに寄与しているのではないか。それを疫学的に見ると、集団免疫の獲得を待つ、ということになるのかもしれない。いずれにせよ現在日本や欧米各国で取られている対策とは、対極に位置するものであるように思われる。これは何か重要な示唆を与えていないだろうか。

この点に関して私は別に、隔離・分断が誤りであって積極的な交流をこそ守るべきである、と主張したいわけではない。ただ注意を促したいのは、「感染対策」という観念が、実のところ「技術」についての極めて強力な思い込みに支配されていないだろうか、ということである。つまり、われわれは感染拡大という事実を見て、それを「管理」せねばならないと反射的に考える。これは真っ当な反応であると思う。しかしそれだけが、われわれにとっての「技術」なのであろうか。そのような「管理」の理念によって、実は私たち自身が自由を奪われていないだろうか。もっとべつの「技術」が考えられるのではないか──そういったことを考えねばならないと思うのだ。だがそのためにはどうすればいいのか、手がかりはあまりに少ない。無暗に「管理」に対して反発すればいいということでないのは確かだ。しかし少なくとも、「管理」を最上位に置くようになってしまっては、何のための「管理」であるのか、全く分からないではないか──これもまた確かなことであると思う。

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