つくばみらい市農業実習 夏の合宿 報告書 城間 正太郎、藤井 祥、崎濱 紗奈、山田 理絵、菊池 魁人

つくばみらい市農業実習 夏の合宿 報告書 城間 正太郎、藤井 祥、崎濱 紗奈、山田 理絵、菊池 魁人

日時
2014年8月25日(月)午前9:20〜8月26日(火)午後2:00頃
場所
茨城県つくばみらい市寺畑の圃場(農業実習)、つくばみらい市筒戸 古民家・松本邸(宿泊)
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)「共生のプラクシス――市民社会と地域という思想」教育プロジェクト
協力
NPO法人「古瀬の自然と文化を守る会」

城間 正太郎

 報告者の城間を含むIHSの学生及び教員・研究員14名に東京大学大学院農学生命科学研究科農学国際専攻の学生及び教員13名、計27名は今回、茨城県つくばみらい市寺畑を訪れ、筒戸にある都市農村交流施設の古民家・松本邸にお邪魔して一泊させてもらい、農作業を実際に経験するとともに、NPO法人「古瀬の自然と文化を守る会」(以下「古瀬の会」と表記させていただく)で働いているみなさんにインタヴューをすることができた。以下、時系列に沿って今回の活動の概略をお伝えする。

 8月25日(月)の朝最寄りの新守谷駅に集合した私たちは、その後松本邸に移動し、お昼ご飯を準備する班と松本邸内のお掃除をする班、松本邸の庭の手入れをする班に松本邸の隣にある田んぼの手入れをする班の四つに分れ作業に取り掛かった。城間は田んぼの手入れをする班に参加し、慣れないながらも草刈機を扱いながら田んぼに生えている雑草を刈り取った。午前の作業を終えた後は、昼食の時間である。食事班の作ってくれた、ご飯に味噌汁、茄子の肉味噌炒めというシンプルながらも味わい深い昼食を満喫することができた。

 そして午後は、古瀬の会のみなさん及びその関係者のみなさんにインタヴューである。このインタヴューでもいくつかのグループに分かれたが、城間は東京都葛飾区立のある博物館に勤務なさっているAさんにお話を伺うことができた。この博物館は、葛飾の歴史をたどる郷土博物館と星の世界をさぐる天文博物館が一つになってできた博物館である。そこで働くAさんは福島県の農村地帯の生まれの方だが、高校卒業後都会に憧れ上京。しかしその後、やはり農村地帯の方が都会より魅力的であることに気付かされ、博物館という場所で失われつつある自然のよさを伝える仕事に就職なさる。そのお仕事の一環として低湿地ならではの農作が行われている場所を探していたところ、寺畑に巡り合い、以後古瀬の会の人々とも交流を結びながらお仕事をなさっている。

 Aさんがお勤めになっている博物館は、博物館といえども単に展示を行うに満足せず、農業体験を人々に提供することもその重要な活動の一部としている。だが一口に農業体験といっても、近年は求められるサービスが多様化しており、それに対応しお客さんに満足してもらうことは容易ではない。例えば今では行われていない昔ながらの農作業を再現するなど、博物館は工夫を凝らしている。また、農業体験が一種のレジャーとして提供されることにより、その体験が一回限りの表層的なものとなってしまい、継続的な参加を通じて農村を深く理解してもらうことが困難であるという現状もあるという。いいかえれば、農村のことを深く理解してもらいたいという思いを抱いている受けいれ側の農家と都市部の利用者との間には、農業体験に求めるものの違いによる溝が横たわっているのである。だがAさんいわく、今日の課題はこうした溝を埋めることにはなく、より多くの人々に農村の魅力に気付いてもらうことにあり、今の形のままでも構わないから農業体験がより一般化されることをAさんは望んでいるという。Aさんへのインタヴューからは、農村の魅力を人々に伝えようとする知恵と努力の一端を垣間見ることができた。

 インタヴューが終わった後は、田んぼで雑草のヒエを抜く班と晩ご飯を準備する班とに分かれた。城間はヒエ抜きをする班に参加し、一時間程度作業を行った。ひたすらヒエを抜くという単純な作業だったが、足腰の踏ん張りに加え腕力も使う初めてのヒエ抜きを通じ、スポーツを終えた後のような心地よい疲労感に包まれることができた。そして、晩ご飯はカレーである。手作りのカレーはそれだけでも美味しいに違いなかったが、一日の活動を終えた後のカレーは格別に体に染み渡る味がした。お酒もふるまわれ、みな疲労を忘れて飲食を楽しんだように思う。

 とはいえ、食事の後学生を待っていたのは翌日の朝に控えているプレゼンテーションのための準備である。みなインタヴューの内容を発表の形にまとめるために頭を突き合わせ、グループによっては夜中まで話し合いを続けていた。その甲斐あって翌日はみな充実した発表を行うことができ、発表及びディスカッションは想定されていた時間をオーバーする盛り上がりを見せた。その後のお昼ご飯の時間には、焼きたてのお餅もふるまわれた上に学生同士夏ならではのスイカ割りを楽しむこともできた。今回の合宿では、みな一泊二日の活動全体を通じ濃密な時間を過ごすことができたように思う。

報告日:2014年9月5日

藤井 祥

 1日目午前の農作業では「古瀬の会」会員の方々のご指導を仰いだ。報告者は刈払機を用いて圃場周辺の草刈りを行った。刈払機は学校や公園の整備に使われているのを近くで何度も見たことがあったが、実際に手にするのは初めての経験だった。予想以上に重く、肩紐と腰当てを装着したりエンジンを始動させたりするだけでもかなりの時間を費やしてしまった。また、実際に操作してみても、(後述の理由もあり)最初は雑草の上部しか刈り取ることができず、きちんと地上部を除去できるようになったのは作業を始めて1時間経ってからのことであった。しかし直後にガソリンがなくなってしまい、刈るべき場所の半分も終えられなかったことには無力感を覚えてしまった。

 実のところ、報告者は刈払機によって大学構内が整備されるとき、生息数の減っているとされる日本の在来種タンポポ(カントウタンポポやシロバナタンポポなど)が駆除されたりするのを目撃しており、植物を研究している者として刈払機の存在をあまり好意的には見ていなかった。始めて間もないうちはやはり抵抗があり、半端に草を切っていただけだったが、作業を進めるにつれて、植物は葉を切断されてもすぐに再生するため全く効果がないと考えるようになり、しっかり地上部を切除するようにした(根が残っていれば再び生えてくることもあるが、回復は遅い)。農地という特性上雑草は不利益しかもたらさないということや、労力やエネルギーを用いているのだから有意義なことをすべきであることを、あらためて感じさせられた。さらに燃料が枯渇したあと、手で雑草を引き抜くこともやってみたが、全体の除草を行うためには刈払機に頼らざるをえないことが認められた。

 午後の農作業は水田でのヒエ抜きであった。この水田は無農薬栽培を行っているために、イネより背の高くなったヒエがいたるところで穂を突き出していた。「古瀬の会」の方から、ヒエを放置すると種子が散布されて来年さらに多くのヒエが生えてしまうため、その前に駆除することが重要なのだとの説明を受けた。除草を作物に土壌の養分や日照が行き渡るようにするものだと考えていた報告者にとっては、新しい発見であった。水田での作業は小学生の時分に体験したことがあったため、さほど困難を感じなかったが、小さなヒエを見逃してしまったり抜き取るのに手こずったりしているうちに、あとから作業を始めた「古瀬の会」の方に追い越されてしまった。手際はもちろんのこと、残しても構わないヒエと除くべきヒエの判断(大きさが問題になるのだろうか)も重要なのだと思われた。後日、福島県にて水田をたくさん見る機会があり、黄金色になりつつあるイネの間から深緑色の背の高い草が生えているのを見、ヒエだろうかと考えるようになった。また水田によって雑草の多さが異なっているのが興味深く、手入れの頻度の問題なのか、農薬の使用頻度の問題なのか、考えさせられることが増えた。

 これらの農作業から感じたのは、農業という営みがいかに環境の均一化を必要とするかということである。土地をならし、不要な植物を排除し、同一の作物を広い面積に作付しなければならない。もちろん、自給自足程度の小規模な耕作であれば狭い範囲に多様な作物を植えることも可能であるが、それ以外の均一な環境の創出は不可欠である。環境の均一化は、都市化や工業化など、「文明」と呼ばれるものすべてに共通することで、人類の歴史と言ってもよいだろう。山での採集に比べて、整備された田畑での機械による作業はいかにも効率的である。後述のインタビューでも感じたことであるが、現在の日本の農業のように従事者が減少している状況では、均一化による効率的な農業でないと続けることが難しく、さらなる機械の導入が必須となるだろう。生物(や価値観・文化)の多様性を保持しようとする現代の風潮と、我々の生活を支える農業(あるいは産業)は完全に逆の方向を向いており、矛盾するこれらをどのような形で両立させるかが、今後の課題としてさらに表面化してくるはずだ。

 1日目午後のインタビューでは、農学生命科学研究科の修士学生2名、IHS研究員の内藤久義さん、具裕珍さんとともに「古瀬の会」会長のBさんからお話を伺うことになった。Bさんは現在70歳で、日立製作所勤務、ダンプカーの運転手、歌手、建材屋経営などを経て、(おそらく現在はその貯蓄で暮らしつつ)稲作農家をされている。Bさんが当地の農業や「古瀬の会」に自信を持って活動されており、多方面からも評価されていることが、お言葉の端々から伝わってきた。しかし一方で、今の日本において「百姓では食っていけねぇ」と何度も口にされていたのが強烈な印象として残っている。主な原因は米価の低下であり、専業として生計が成り立つ価格の3~4分の1程度の価格しかついておらず、補助金もその1割程度しか支給されていない。また、稲作は作業が機械化されているために兼業が可能であるが、畑作は機械をほとんど使うことができず手間がかかるため、兼業が難しく、かつ価格が低いために、専業としても継続は困難であるとのことであった。

 Bさんは農業や会の活動を将来にわたって引き継いでいくことに対して懐疑的なお考えをもたれていた。報告者の「素晴らしい活動をされているのに続かないのはもったいない、どうしたらいいのだろうか」という疑問に対して、「君も農業を三日間やってみれば分かるが、続くわけがない」と微笑みながらも冷淡におっしゃったのには多大な衝撃を受け、それが経験に裏打ちされた言葉であることが分かると、言葉を返すこともできなかった。また、農学生命科学研究科の学生の方が、継続を可能にするかもしれないひとつの方法として、近年開発されているコンピュータや情報通信を用いた効率的な農作物の管理方法などを説明した際にも、あまり興味を示されることはなく、現在の農業への自信と将来への失望からくる屈折した想い、信頼関係を築くことの難しさを痛感させられた。

 さらに、2日目午前に「古瀬の会」の他の会員の方にインタビューをした班の発表を聞く中で、会の維持は可能な範囲で構わないと考えておられる方もいらっしゃるということを知り、継続を望むのは外部の人間の無責任な思惑なのだろうかとも考えるようになった。あるいは、農業を知らないゆえの農業への憧憬や幻想を語っているだけなのかもしれない。しかし、農業の存続は我々の生活を維持するうえで不可欠なので、農業の厳しい現状やそれに対する自分の無力さから目をそむけてしまうことだけはないようにしようと心に誓った2日間であった。

 最後に、今回の合宿が農学生命科学研究科とIHSの協同で行われたことで、IHSのあり方について考えるよい機会になったと思うので、そのことについても記述する。食事のときなどIHSはIHSで固まって行動しまっており、交流の機会をみすみす逃していたのは、報告者自身も含めて反省すべき点であろう(写真の撮影という目的があったようだが、あまり理由になっていないと感じる)。インタビューで同斑になった農学生命科学研究科の方に、IHSの印象を尋ねたところ、みんな真面目で目的を見失わないところには感心したが、もう少し「オープンマインド」であるほうがよい、「最初の壁を崩すのに時間がかかりそうだ」と感じたとのことであった。加えて、「古瀬の会」の方からも農学生命科学研究科の方からも「IHSとは何か」という疑問を複数回投げかけられたが、納得される回答ができないことにも気づかされた。外部に対する態度や伝え方は、IHSとして今後考えていくべき課題であり、今回のような外部との協同企画の場が、その何よりの機会となろう。

報告日:2014年9月9日

崎濱 紗奈

 夏学期を通して行われてきたつくばみらい市での農業実習も、この度で五回目を迎えた。夏季休暇中ということで、一泊二日の合宿にはIHS及び農学生命科学研究科から多くの参加者が集った。

 合宿会場となったのは、「古瀬の自然と文化を守る会」(以下、「古瀬の会」と表記させていただく)の皆さまが管理していらっしゃる古民家松本邸である。関東鉄道常総線新守谷駅に集合したのち、徒歩にて松本邸へ向かった。到着後早速、掃除班・食事班・草刈り班に分かれて作業を開始した。私は掃除班に振り分けられた。昔ながらの名家とあって、畳の部屋がいくつもある。戸を開け放せば風が心地よく吹き抜けるのと引き換えに、埃は四方八方から舞い込む。まずは天井の埃をはたき、それから掃除機をかけ、更に雑巾がけをするといった具合に、大人数で手分けして働いた。掃除が終わったら次は食事の準備である。食事班が既に色々準備してくれていたので、掃除班はその手伝いに回るという具合だった。草刈り班が戻ってきて、いざ食事という頃には皆ぺこぺこにお腹を空かせていて、茄子の肉味噌炒めにご飯とみそ汁という食事が殊更美味しく感じられた。今回私達は一泊二日きり泊まるだけなので、掃除や食事の準備にも楽しく取り組むことができたが、もしこのような古民家に住む場合、毎日の家事労働は相当なものであろう。昔ながらの生活スタイルの光と影の双方を垣間見た経験だった。

 食事の後は「古瀬の会」で活動なさっている皆様にインタビューをさせて頂いた。私がお話をお伺いしたのは、「古瀬の会」発足当時から中心メンバーとしてご活躍なさっている、Cさんである。インタビューでは、Cさんご自身のライフ・ヒストリーに加えて、「古瀬の会」発足以降の経緯及び今後の展望についてお聞きした。Cさんは、稲作専業農家の長男として生まれた。厳しい父母に育てられ、将来は当然家業を継ぐものと期待されたが、ご本人曰く「農業が嫌で嫌で仕方がなく」、二十代前半は会社員を転々とする生活を送った。二十代後半は、高校時代園芸を学んだということもあって、造園業に従事することを決めた。以後、日本全国各地ひいては中国など海外の古い庭園を見て回った。現在Cさんは日本屈指の造園家として知られているが、この経験が「古瀬の会」の運営にも生きていると言う。「造園とは配置の美学である」と語るCさんによれば、組織運営も、能力を最大限発揮できるよう各人を正しく配置することが重要であるという点において、造園に通じるものがある。あれこれ指示を出して自分の思い通りに人を動かそうとするのではなく、適材適所を実現することによって組織運営は自然とうまくいくのだ、ということだった。

 東京オリンピックに象徴されるように日本社会が大変革を遂げていく中、Cさんの住む寺畑集落も姿を変えていった。まず、農業の在り方そのものが変わっていった。農閑期に大都市に出稼ぎに行った者が現金収入を得る。そのお金で除草剤や大型機械を購入する。そうすると、農業の機械化・合理化が加速する。集落の地形も変化した。道路整備や宅地造成で土地が切り拓かれていく。Cさんを含めた数名が「古瀬の会」の前身となる桜の植樹活動を決意したのも、集落の変化を目の当たりにしたからこそであった。仕事柄、表土が固まるためには途方もない時間がかかるということを知っていたCさんは、ふるさとの土が掘り返されていくことに胸を痛めたという。自らのふるさとの環境について一度皆で考えてみないかということで集まったメンバーは、もともと青年会活動を通して気心の知れた仲間たちであった。その多くは家を継ぐために地元に残った農家の長男で、それぞれ自ら事業を経営しつつ農繁期は農業を営むという兼業農家である。Cさんは、兼業農家が中心となっているからこそ、「古瀬の会」の活動はマンネリ化することなく現在に至るまで続いてきたのだと言う。農業においては素人だからこそ発想が自由になる、ということだ。田んぼアートや燈籠流しなどの多くのイベントは、型に縛られることなく、何でもやってみよう、やってやろう、という雰囲気の中から生れた。

 「古瀬の会」のこうした自由な雰囲気は、構成メンバーを見れば一層明らかである。中心となって活動しているのはCさんのように古くから寺畑集落に住んでいるメンバーであるが、定年退職後移住してきた方、東京から月に数回通う方など、様々な参加者がいる。外部から人を呼び込むことについては会の内部においても賛否両論あるということだが、Cさんは、都会の人を巻き込むことについて肯定的な意見を持っている。「古瀬の会」が今後活動を継続していくためには、都会からの参加者が定期的に通って来てくれることが必要だというのがCさんの考えだ。ひょんなことから繋がった縁で、現在「古瀬の会」のイベントには東京葛飾から多くの親子が参加している。両者のかけ橋となっているのは葛飾区のある博物館で勤務されているAさんだ。満天の星空の下、戸外で夕食を食べながらお伺いしたAさんのお話は大変興味深かった。福島の農村地域に生まれたAさんは、故郷の閉鎖的な雰囲気が嫌で東京へ出て来たものの、今度は逆に都会に馴染むことができず困惑していたという。現在はご結婚されて東京葛飾にお住まいで、「古瀬の会」の協力を得ながら博物館学芸員として数々のイベントを企画・運営していらっしゃる。Aさんによれば、農村地域と都市を繋ぐ活動を通して見えてくるのは、戦後の日本社会の変遷だという。葛飾から「古瀬の会」に定期的に足を運ぶメンバーの中には、高度経済成長期の中で故郷を離れて東京でがむしゃらに働いてきた方が多い。定年退職を迎えてもう一度、自らの育った農村の生活に触れたいという思いが強くなり繰り返し「古瀬の会」を訪れるというのだ。

 畳の大広間でごろ寝、という夏合宿ならではの一夜が明けた翌日は、前日のインタビューの報告会を行った。他の参加者の発表を聞く中で、「古瀬の会」に携わっていらっしゃる皆さまは実に多様な背景を持っていらっしゃるということを確認して、大変興味深く思った。報告会を終えたあとは、田んぼでヒエ抜きの作業に取り組んだ。頭を垂れた稲穂が黄金に色づく中、稲をなぎ倒さないようかき分けながら、ぬかるむ田んぼに足を踏ん張って緑色のヒエを根っこごと引き抜く。慣れない作業に四苦八苦しながらも、作業を終えて綺麗になった田んぼを見渡したときの爽快な気持ちは格別だった(もちろん、全てのヒエを抜くことはできなかったので、それが心残りではあったが)

 松本邸に戻って昼食を食べた後、解散した。駅まで車で送って頂く途中、田んぼアートを実際に見せて頂く機会を得た。あぜ道に建てられた物見櫓から田んぼを見渡すと、サッカーボールが描かれているのが見える。メンバーの中に設計のお仕事をしていらっしゃった方がおり、その方が図面の設計をしてくれるのだ、と仰っていたCさんの言葉を思い出す。初めて田んぼアートを実施したのは、ちょうどつくばエクスプレスが開通した年で、開通を祝う絵を田んぼいっぱいに描いた。当初は誰も注目しなかったこの取り組みも、その後徐々に話題を呼び、現在に至るまで継続されている。

 帰り道、CさんやAさんのお話を思い出しながら、ふと次のようなことを思った。「古瀬の会」とは、農村を離れた者・留まった者の双方が邂逅する場所として機能しているのではないか。バック・グラウンドの異なる者同士が、それぞれの思いを抱きながら、自らと土地を結び付け直す。現代日本社会における新たな共同体の在り方が、ここにはあるのかもしれない。

報告日:2014年9月9日

山田 理絵

 本研修の目的は、NPO「古瀬の自然と文化を守る会」(以下、「古瀬の会」と記す)の会員・非会員農家と協力者の方々と農作業体験、食事作りを通して交流し、インタビューを行って同会とその関係者の方々について知ることであった。研修の概要として、まず1日目は、午前中に農作業班・掃除班・炊事班に分かれて作業を行った。報告者は、古民家を掃除させていただいた後、約30人分のお昼ごはんをつくる炊事班に加わった。お昼を食べた後は、小グループに分かれてインタビューを行い、その後田んぼでひえ抜き作業を行った。2日目の午前中は、前日のインタビュー調査をもとにした報告会、ディスカッションが行われた。そして最後に、古瀬の会の田んぼでとれたお米でついた、おもちをいただき、2日間の研修が終了した。このように2日間、つくばみらい市の農家の方々が、実際に仕事をし、組織として活動している場所にお邪魔して、時間を共有させていただいた。研修前には、単に、行くだけ、手伝うだけ、話すだけ、すなわち「経験する」「知る」以外に、なにを学びえるのか、ということを漠然と考えていた。

 本レポートでは、2日間の研修の中でも特に「古瀬の会」の方へのインタビューを中心に報告したい。報告者は、疾患や障がいの当事者や家族の組織を対象に社会学的な研究しており、調査の一環としてフィールドワークを行っている。関係する場所に赴いたり、そこでお話をしたりする時はもちろん、それ以外の時間もしばしば、誰かと「話すこと」と「聴くこと」にはどのような意味があって、どうしたらこの2つの行為をうまく「できる」ようになるかについて考える。おそらくおおくの人は、他者を理解しようとすればするほど、より一層「わからなさ」にぶつかり、同時に、自分が言葉で何かを表現する場面で、しばしば「伝わらなさ」を感じるのではないだろうか。

 当然のことであるが、あるコミュニティにおける現象や人々の在り方を記述する調査、解釈する研究では、参与観察者・聞き手としての調査者が「ただ」入っていけばいいというわけではない。特に、人類学や社会学の分野では、どのように調査すべきなのか、どのように解釈すればよいのか、そもそも調査や解釈の対象としてよいのか、ということが学問的研究の課題のひとつであり続けている。社会学者の松宮朝は、農村研究をする研究者のジレンマとして、①「当事者」でないものが「研究」をすることの意味と意義、②調査地と関わる時間的・空間的限界を挙げている。以下では、後者のジレンマに関する箇所を引用しておく。

 石見町でのフィールドワークからもう10年以上経つが、「短い間いても何にもならないよ」というT氏の言葉が耳から離れることがなかった。石見町の出身者ではないT氏は、「嫁は10年地域にいないと認められない」と堂々語っていた。10年暮らし続けることで、ようやく地域のことがわかり、何かをしてもよいと認められるのだという。「当事者」になることには、このような重みがある。(松宮朝「『当事者ではない』人間に何ができるのか?──農業・農村研究における実践性と当事者性」宮内洋・好井裕明編『〈当事者〉をめぐる社会学──調査での出会いを通して』北大路書房2010:81-82)

 「お客さん」であるわれわれが、1泊2日という短い時間のなかで見られるもの、聞けることはとても少ない。研究調査が求められるわけではないにせよ、「お客さん」として迎えられる時間の中で「経験する」「知る」以外になにを考えることができたのだろうか。以下では、合宿のプログラムのひとつであった「古瀬の会」の会員の方々への聞き取りについて振り返ってみたい。

 報告者がお話をうかがったのは、「古瀬の会」の会員の方で、会社員生活ののちに農業を始められたあったD氏であった。聞き取りにおいては、農業を始められるまえの生活、古瀬の会に参加されたきっかけといった個人史にかかわるお話、古瀬の会の活動内容、将来の展望といった組織についてのお話を聞かせていただいた。お話の内容の興味深さもさることながら、私が感じたことは語りの中で、あえて「物語」をつくらないように感じられたD氏の語り方であった。具体的に、D氏は人生の中で「偶然」や「なんとなく」人や場所に出会ったと語っており、強い理由や動機、出来事の因果関係は語られなかったのである。しかし、個人史をうかがっていると、その「偶然」は「何も考えていなかった」と解釈してよいとは到底思えない。仕事について、家族について、様々な出来事を豊かに語ってくださっていたからである。

 人々は往々にして、起こった出来事の原因を突き止めようとし、起こした行動の理由を明らかにしようとしたがるのではないだろうか。一方で、偶然が大きく現実を左右することを認めつつも、他方で必然的なものも信じようとする。そのような傾向が思考の域を出て、「語り」を構成する場面において、その傾向はより強固で明確になる。例えば物語論では、人々は意識的にせよ無意識的にせよ、実際に起こった出来事や経験の中から、特定の部分を切り取り並べ替えて「語る」ということが指摘されてきた。

 D氏の語りについて考えてみると、もちろん、時間的制限や心理的要因によって動機が語られなかったということも十分に推測される。しかし、D氏が古瀬の会について語るのを聞いた時、個人史の語りの中で「偶然」ということばに付与されていた意味を別の角度から捉えることも可能ではないかと考えた。報告者が着目したD氏の語りというのは、古瀬の会の色々な活動に主体的に参加していることを語りつつも、他方で「なくならない組織はない」と語っていたことであった。具体的には、活動により多くの人々や物事に関わってきたことを豊かに語る一方で、それらが永続的なものではないということ、したがって万が一会の存続が危ぶまれた時、誰かが多大な「無理」をしてまで、会を続けようとしなくてもよいのではないかということであった。

 D氏の発した「永続的な組織はない」という言葉は、人間にはコントロールできないものがあるという考え方と近しいのではないだろうか。D氏が自身の人生の出来事を語るとき、出来事と出来事の〈接続〉について多く語らなかったのは、こうした考え方の表現であったということも可能であろう。考え方や語り方は、年齢や対人関係、生活環境によって構成され変化していくものであるが、D氏の場合、もしかしたら「農業」という仕事に関わり、コントロールできない「自然」に関わることによって、人為的なコントロール力の限界が強調されるに至ったのではないか、そんなことを考えた。松宮は社会学者の阪本英二の「当事者」像を以下のように指摘している。

 阪本は、当事者性をなんらかの個人的属性のようにとらえるカテゴリー的区分を超えて、「同じ〈場所〉にいること」として場所論的にとらえることの意義を主張する。当事者性をめぐる関係論的な議論は、「当事者」である/ないという区分に終始してしまいがちである。しかし、場所論的にとらえれば、「当事者」と共有される〈場所〉の歴史をとおして理解しあう「臨界」が生まれる可能性があるというのだ。(松宮 2010:83)

 繰り返しになるが、短い時間の関わりの中で、なにかを「分かる」こと、なにが「分からない」のかを考えることは困難が伴う。しかし、たとえそうだとしても、それは〈なにもしない〉ことと同義ではない。わずかな時間であっても、実際に出かけていき、場所や人々との感覚的な相互作用を繰り返すことによって、様々な他者と共生する際に必要な想像力を鍛えることができるのではないかと改めて感じたのである。

報告日:2014年9月11日

菊池 魁人

 8月25日から26日にかけて、「共生のプラクシス」教育プロジェクトと東京大学大学院農学生命科学研究科農学国際専攻の協力のもと開かれた「夏の合宿」に参加した。先学期から数回日帰りの農業実習が行われ、今回の合宿もその延長線上にあるが、報告者は初めての参加であった。

 朝9時20分に常総線新守谷駅に集合し、今回の実習の会場である「古瀬の自然と文化を守る会」の古民家松本邸へ徒歩で向かった。大きな幹線道路を逸れると緑に満ちた田園風景が視界に広がり、懐かしい気持ちになった。

 松本邸に到着して「古瀬の会」のみなさんに挨拶を済ませた後、農学生命科学研究科の小林和彦教授から本合宿の概要が説明された。まずはいくつかの班に別れて古民家の周囲の整備を行い、昼食の後に「古瀬の会」メンバーへのインタビュー調査、そして天気が持てば水田に入ってヒエ抜きを行うというスケジュールであった。報告者は古民家玄関前の雑草抜きを担当することになり、鎌でひたすらスズメノカタビラを掘り起こす作業に従事した。

 指導してくださった「古瀬の会」の方によると、スズメノカタビラが土中の水の流れを分断してしまうことから、定期的に駆除を行うことがきれいな芝生を維持するのに必須なのだという。しゃがみこんで無心になって抜いていると、最初は途方もない数のように思えた雑草も数時間も経てば目に見えて減っていき、達成感もひとしおであった。

 待ちに待った昼食は地元のお米に肉野菜の味噌炒めと味噌汁という素朴なメニューながら、素材が新鮮なためか驚くほどの美味しさであり、思わず3回もおかわりをしてしまった。食事中はIHSの教員と歓談し、親交を深めることができた。

 食後は事前に決められたグループに従って「古瀬の会」のメンバーと学生数人に分かれ、生い立ちや「古瀬の会」参加の経緯などをお聞きした。報告者の班は農学生命科学研究科の修士1年の学生が二人、梶谷真司准教授(総合文化研究科)、そして「古瀬の会」メンバーのEさんとFさんの6人が集まった。

 EさんとFさんは、お二人とも地元寺畑集落の出身で、定年まで農業とは無縁のお仕事に就き、定年後に地元へ戻ってきた際の「古瀬の会」参加をきっかけに農業に携わるようになったという経緯が共通していた。

 Eさん(67歳)は現在のつくばみらい市の農家の家に生まれ育ち、63歳で定年退職するまで葛飾区の信用金庫で働いていて、それまでの農業経験は実家の草取りを手伝ったくらいだということであった。実家の耕作面積が小さいため父も40代で東京の仕事と掛け持つ兼業農家になったということも、Eさんが農業以外のお仕事に就職したきっかけといえるかもしれない。定年後は趣味の写真とハーモニカに加え、「古瀬の会」で農業の手伝いや農業文化の保存に携わっている。

 Fさん(63歳)も近隣の集落に生まれ、60歳で定年退職するまで取手市の消防隊に勤められた。もちろん農業とは無関係のお仕事で、3年前に「古瀬の会」に加入するまで農作業をされたことがなかったという。Eさんと対照的に「無趣味」であったために定年後の時間を持て余し、奥様の紹介で「古瀬の会」を知って農作業の手伝いなどをするようになったという。

 お二人が語る定年退職後の男性の生活についても考えさせられるポイントがいくつもあった。Fさんは「きょういく・きょうよう」というキーワードを挙げ、「今日行くところ」と「今日の用事」が毎日あることが定年退職後をうまくいきるコツだとおっしゃっていた。60代まで仕事人間として会社で生活してきた人は、定年を迎えた後に毎日の過ごし方がわからなくなるということである。また、会社時代の人付き合いも定年後は断絶し、人間関係の面でも孤立しがちなのだという。そうした意味で、「古瀬の会」は定年退職を迎えた男性の交流の場としても重要な機能があるように思われた。

 インタビューの後、天候が好転してきたので全員で「古瀬の会」が管理する水田に向かい、裸足になって水田の中のヒエ抜きを行った。水田の稲は刈り入れ間近で金色に色づき、そのなかに分け入っていくときに、なんとも言えない喜びが胸のうちに沸き起こった。古来、収穫期に祭りを開いたのは、もちろん豊穣を神に感謝するという儀礼的な意味もあっただろうが、人々が収穫を前にした時の根源的な歓喜を発露せずにはいられなかったからではないかと考えた。

 報告者はIHS生の藤井祥さんとタッグを組み、交代で袋を持ちながら水田に生えるヒエを刈っていった。ヒエの種が水田に落ちて来年度発芽することを防ぐことが目的で、水田の端から稲のあいだを踏み分け、取りこぼしがないよう少しずつ手分けして作業を行った。足裏に感じる水田の土は心地よく、夢中になっているうちに全体の面積の2/3ほどを完了させることができた。17時になると、あと1時間あれば水田全体を除草できたのに、と悔しがりつつ水田を後にした。

 松本邸に戻ってから班のメンバーで集まって翌朝のプレゼン資料を準備し、それから玄関前に机と椅子を並べての夕食となった。夕食のカレーは信じられないほど美味しく、農作業で身体を動かしたこともあって何杯もおかわりした。普段はおかわりをほぼしない食生活をおくっている報告者は、この一日だけでも普段の数日分を食べた計算になる。

 翌朝は朝食を済ませてからさっそく各班のインタビュー調査報告会が行われ、「古瀬の会」メンバーの多様な経歴と日本の農業の現状について興味深い報告をたくさん聞くことができた。「古瀬の会」についても、創立から20年がたつ茨城県内最古参に近いNPO法人であることから、長続きした秘訣や今後の方策などを発表したグループもあった。

 発表会が終わった後、報告者は小林教授とIHS生の城間正太郎さんとともに玄関先で炭火を起こして餅を焼いた。去年「古瀬の会」の水田で収穫した太郎兵衛餅米でついた餅で、玄米・五穀米を混ぜたもの・精米したもの、の3種類があった。それぞれの食感と風味の違いを楽しみながら昼食を食べ、一息ついてから「古瀬の会」の方々が用意してくださったスイカでスイカ割り大会を開催し、大学院生であることをしばし忘れて楽しんだ(運良く報告者が割ることができた)。その後、帰り道に水田に色違いの植物を植え込んだ「田んぼアート」を見学し、守谷駅からつくばエクスプレスに乗って帰路についた。

 今回の実習では、「共生のプラクシス」の企画ならではの「身体知」の実践として、日本の農業について実際に身体を動かしながら考えを深めることができた。我々が最も根源的に必要とする資源の一つ、「食」を提供する農業が社会に占める位置は、都市化と「グローバリゼーション」の両方の進行によってますますマージナルになり、食料自給率が低下する一方である。しかし、輸入食品に頼ることに対する政治経済的なリスクや、食の安全性や環境負荷などへの関わりに鑑みると、農業をもう一度日本の市民社会の中心へ引き戻す必要があるのではないかと思えてくる。

 一般に「帰農」「援農」といったキャンペーンの対象となるのは、働き盛りの若者がほとんどだと思われるが、仕事や生活基盤のリスクなどを考慮すると、なかなか農業参入に踏み切れないのが現状だろう。今回のインタビューでも、つくばみらい市の農家の大部分は兼業農家であることを聞き、農業一本で生計を立てていく難しさが浮き彫りになった。しかし、同時にインタビューを通して、定年退職後の男性こそが市民社会と農業の架け橋となり、農業を盛り上げていく主役となりうるのではないかと気付かされた。生活の基盤と時間があり、子育ても終了し、孤立を脱しようとする彼らを農業へと導く「古瀬の会」の活動は、高齢化が進む日本の農業の衰退を反転させる鍵となるかもしれない。

 一泊二日と短い期間であったが、「古瀬の会」の方々の温かさに触れ、親戚の家に帰省しているかのような時間を過ごさせていただいた。本当にありがとうございました。

報告日:2014年9月15日