「ドキュメンタリー上映会・監督トーク【A Kali Temple Inside Out】」報告 ピーピョミッ

「ドキュメンタリー上映会・監督トーク【A Kali Temple Inside Out】」報告 ピーピョミッ

日時
2018年12月11日(火)
場所
東京大学本郷キャンパス・ダイワユビキタス学術研究館3階
主催
東京大学大学院博士課程リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム」 教育プロジェクトS
協力
東京大学情報学環/大学院学際情報学府林香里研究室
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1. 要旨

本映画は、ドキュメンタリー映画監督で視覚民族誌研究家でもあるディペシュ・カレル氏が自らの目線でカメラを回し、インドの人々の宗教的な日常風景を撮影したエスノグラフィック(民族誌)映画である。ヒンドゥー教の寺院を舞台に、現地の人々の暮らしを通じて宗教に対する信仰心とは一体どのようなものであるのかについて、寺院の「内側」と「外側」の二つの視点から描き出している。

2. 印象に残った場面

本映画を見て、印象に残っていた場面について述べていきたい。まずは、ヒンドゥー教寺院の中でカーリー女神の信者たちが女神に経済的な庇護をお願いしたり、あるいは子供や家族の病気治癒やケガ治療への加護をもらうために寺院に通う人々の姿である。人々は女神に保護されていると信じ、日常的な悩み事を女神に相談することで、精神的な安心や暮らしの安定が保たれる。寺院が人々にとって、心の拠り所になっていることが、映像から鮮明に伝わって来た。

カーストにより階級がはっきりと分けられているインド社会では、宗教は政治家たちに利用されているが、政治家たちが寺院にくるのは年に一度のみである。一方で、庶民は、毎日・毎週のように寺院に通っており、宗教の名称や形は違えども神が一つであると信じている。そして神は宗教というカテゴリーを越えた存在であるという共通の認識を持っている。庶民にとって、宗教は政治的な問題と関連しておらず、また日常生活は寺院・宗教と密着に関わっていることを知ることができた。

3. ヒンドゥー教寺院の「内側」

映像では、ヒンドゥー教寺院が、社会で周縁化されている人々に精神的な安定をもたらす役割を果たしていることが鮮明に映し出された。ヒンドゥー教寺院の「内側」を映したシーンでは、三人の人生が印象深く心に残っている。まずは、神に救われて残りの人生をカーリー女神に捧げる女性の人生である。彼女は家族がおらず孤独の中で暮らしており、病気になって医者たちが治療してくれても良くならなかった。人生を諦めようとしていたとき、最後の方法として、ヒンドゥー教寺院に通い、女神にみてもらうことによって病気が治ったと感じることができた。女神のおかげで生きる意味を再発見できた彼女は、そのお礼に残りの人生を女神に捧げることを決意し、寺院の管理や手伝いを懸命に続けるために、残りの人生を生きるのであった。

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二人目は、生活が苦しく貧困から逃れたいと頻繁にヒンドゥー教寺院へ参り、女神に祈りを捧げる男性である。現代のインド社会では、政治との関わりが薄い下層階級の人々に、政府による福祉の手は差し伸べられない。下層階級の人々は、辛い貧困の生活から逃れたいと考えても、貧困から逃れる方法が分からない。彼らにとっての唯一の解決法は、カーリー女神に祈りを捧げることである。女神に祈りを捧げることによって、心の中の不安が解消され、精神的な安定を取り戻し、心のバランスを保っている姿を垣間見ることができた。この男性の話によれば、ヒンドゥー教寺院へ礼拝に来ている人々は、社会の中で経済的に豊かではない下層階級が多くを占めており、経済的に豊かな人々が礼拝に来る姿は見かけないという。「もしもヒンドゥー教寺院の周辺が、経済的に豊かな上層階級の人々のみになると、礼拝にくる人がおそらくいないだろう」と話す彼の言葉からも、寺院が経済的活動と深く関わっていることを知ることができた。

最後に、女神を信じることで、貧困から逃れて生活が改善されつつあった男性についてである。彼は現在、礼拝者たちに花を売る花屋を仕事としているが、もともとは工場で働いており、ある日、このまま工場で働くことが生活を向上させるわけではないことに気付いた。以来、彼は起業することを考えてきたが、あるとき知り合いの紹介で、ヒンドゥー教寺院での仕事をもらった。そして工場で働いた時よりも、寺院でニッチなビジネスを見つけることができ、生活は向上した。

彼は、「礼拝者たちは、質の悪い花より質のいい花を買いたがるのではないか」という仮説を立て、質のいい花を売る花屋ビジネスの仕事を始めたのだが、彼もカーリー女神の信仰者であり、女神が彼にビジネスを成功させる機会を与えてくれたと信じていた。自らの信仰心とアイディアをマッチングさせて花屋を成功させた彼は、神の助けを受けながら朝早くから夜遅くまで誰よりも努力し続けた。彼はヒンドゥー教もイスラム教も彼のビジネスと関わりが深いことから信じており、ヒンドゥー教寺院が休みの日には、彼は近くのイスラム教のモスクで花を売る。映像は、インドの下層階級社会が、このように経済的な活動と複数の宗教が強く関連を持ちながら存在していることを映し出した。

4. ヒンドゥー教寺院の「外側」

寺院の「外側」の様子において一番印象に残ったのは、物乞いの存在であった。彼ら/彼女らは、社会の最も底辺に周縁化されている人々であり、一般社会では透明人間になっている。私が特に感動したのは、物乞いの方々の生活のやりとりが一部、垣間見られたことであった。物乞いの高齢女性が自分の少ないお金を仲間と分け合ったり、食べ物を分け合ったりしているやりとりがあった。お金を少し分けてもらった同じく物乞いの男性が、手にお金を握って、喫茶店で持ち帰りのチャイティーを頼んだ。そこの店員は10歳から15歳くらいの少年であり、男性はその少年店員にお金を渡してチャイティーをもらった。しかしその後、少年店員はそのお金が偽のお金であることに気づき、少年店員は「渡したチャイティーを戻してくれ」と、物乞いの男性の手からチャイティーを奪うように取り戻した。この場面を見て、私はとても悲しく感じた。「あなたたちのような物乞いはいつも嘘をつくのだ」という侮蔑的な一言までもが付け加えられ、無言で手ぶらのまま帰ることになってしまった物乞いの男性の姿。私は、こうした現実を映す映像を見て、無力感に襲われた。

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私はミャンマー出身であり、自国でも物乞いが存在している。しかし私はこれまで、彼ら/彼女らがどのような生活をしているのかについて、一度も関心や興味を持つことがなかった。そればかりか物乞いが近くにいることを警戒したこともあった。しかしこの映画を通して私は、自身がこれまでとってきた行為に対して深く反省させられた。

物乞いの人々の映像のほかにも、印象的であったシーンがあった。それは、ヒンドゥー教の司祭が、イスラムのモスクに行って礼拝をする風景であった。ヒンドゥー教とイスラム教の司祭たちによれば、神は一つであり、宗教は人々によってつくられたものだという。別のシーンでは、信者たちからも神は一つであり、宗教は人々によってつくられたものであることが述べられており、政治家たちが掲げる宗教的な対立と違う宗教観が見られた。

5. 終わりに

本映画が打ち出したのは、インド社会内では宗教間対立という問題が政治家によって政治的に利用されているのであり、宗教を日常の中で実施している人々の間には宗教間の対立はないというメッセージであったように思う。しかし一方で、私は映画の場面や人物設定にいくつか疑問も持った。それは本映画の中で登場する人物の多くは経済的に不自由な下層階級に属する人々であり、社会的地位に偏りがあるということである。ヒンドゥー教寺院に通う信者は経済的に不自由な方々が多く、映像の中にある男性も「経済的に自由な人々は寺院に来ていない」ということを指摘していたが、一方では宗教的対立があると掲げる政治家もいる。こうした政治家たちの主張と、社会と宗教の対立がないと掲げる信者たちの主張とが双方バランス良く掲げられ、さらにそれらの主張が具体的に述べられることが望まれるように思った。

加えて、ヒンドゥー教寺院の司祭がイスラム教のモスクに向かって礼拝する場面があったが、モスクの司祭がヒンドゥー教寺院へ礼拝しに来る場面が見られなかった。このことからも、司祭や宗教を実践している信者たちの思想にある「神は一つであり、宗教は人々によってつくられたものである」というメッセージ性に関して、さらに吟味を重ねる必要があるのではないかと思った。

報告日:2018年12月26日