「まなび旅・福島研修」報告 佐藤 理恵子

「まなび旅・福島研修」報告 佐藤 理恵子

日時:
2019年8月3日(土)~8月4日(日)
場所:
福島県飯舘村、南相馬市
主催:
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクトH「生命のポイエーシスと多文化共生のプラクシス」

2019年8月3日から4日、超域文化科学専攻の関谷雄一先生のご指導のもと、IHS修士課程の学生4名で、2011年3月11日に発生した東日本大震災の被災地である福島県を訪れ、震災や原発事故の爪痕を辿った。2年前まで居住制限がされていた飯舘村や、津波で多くの方が犠牲になった南相馬市などを訪問した。被災者の方々のお話を伺うとともに、福島の自然の美しさや料理の美味しさにも触れ、震災によって奪われたものの大きさを痛感する研修となった。

h_190318_kyoto_01_01.jpg
「お帰りなさい 首を長くして待ってたよ」という看板。上部には放射性物質の数値が表示されている。飯舘村:2019/8/3 関谷雄一先生撮影

〈行程〉

1日目

  • タクシードライバー庄子さんのご案内で、2017年3月31日に避難指示解除準備区域および居住制限区域が解除された福島県飯舘村(現在も村内の一部が帰還困難区域となっている)1を見学した。
  • 椏久里珈琲 福島店(震災以前は飯舘村で営業していたが、震災後に福島市内に移転した)に伺い、マスターの市澤秀耕さん・美由紀さん夫妻にお話を伺った。また、市澤さんのご厚意で大変美味しいコーヒーを頂いた。
  • 地元商店街で(株)アベフォト を営む写真家の阿部宣幸さんを訪れ、お話を伺った。阿部さんは原発事故が起こってすぐに海外から放射性物質の測定器を買い付け、2011年5月に自ら測定所を立ち上げたご経験をお持ちである。
  • 阿部さんのご案内で 日本酒Bar椛 にて夕食会が開催された。福島の美味しい料理や日本酒を楽しみながら、阿部さんを囲んで学びを振り返った。

2日目

  • 福島県住民の避難経路を車でたどりながら、浪江町などを経由して道の駅南相馬へ向かった。
  • 南相馬観光協会担当ボランティアガイドの高田求幸さんのご案内で、津波の被害を受けた南相馬市を巡った。道の駅南相馬⇒南相馬市消防・防災センター⇒鹿島区へ移動⇒旧真野小学校⇒みちのく鹿島球場⇒万葉の里風力発電所⇒真野漁港⇒香の蔵⇒原町沿岸部⇒萱浜海岸⇒小高区沿岸⇒大悲山の石仏⇒小高まちなか⇒原町区除染土仮置き場⇒雲雀ヶ原祭場地 というルートで見学した。

現地の方々のお話に私の関心を交えながら、以下の4点について報告したい。

  1. 地域コミュニティの重要性について
  2. 人口減少とどう向き合うのか
  3. 現地の人たちは原発事故をどう捉えているのか
  4. 災害のしわ寄せはどこへ向かうのか

1. 地域コミュニティの重要性について

南相馬観光協会担当ガイドの高田求幸さんに案内して頂きながら津波による被災地を訪れた時に、興味深いお話を伺った。南相馬市の真野小学校では、不幸中の幸いにして犠牲になった子どもが一人もいなかった。その理由としては、小学校のOBがいち早く学校に駆けつけ、適切な避難を呼びかけたからだという。高田さんいわく、もし災害時に「知らないおじさん」が突然来ても教師や児童たちは不信感を持ち、避難が遅れていたかもしれないが、その男性は真野小学校との交流があり、卒業生であることが学校内で知られていたために皆が指示に従って逃げることができたとのことだった。

また、沿岸部のある地域では、北側の住宅地が南側に比べて海抜が低い場所に作られていた。高田さんによれば、この地域の住民たちは地震の際に津波が来る可能性を想定はしていたものの、北側の地区と南側の地区では意識に違いがあったという。より危険性の高い北側の住民たちのほうが防災意識は高く、定期的に住民同士で有事の際の避難について話し合いの機会を持っていたとのことだった。震災が起こった際には、津波に飲み込まれた家の数は南側より北側のほうが多かったにもかかわらず、犠牲になった人の数は北側のほうが少なかったという。言うまでもなく、3.11は未曽有の大災害であり、犠牲になった方々に落ち度は何ひとつない。しかしながら平時から地域社会との交流や話し合いの場を持ち、信頼関係を築いておくことがいざという時の「命綱」になりうるというのは、非常に考えさせられるお話だった。

h_190318_kyoto_01_02.jpg
h_190318_kyoto_01_03.jpg

2. 人口減少とどう向き合うのか

1.で地域コミュニティの大切さについて述べたが、震災によってそういった集団が失われてしまった事実もある。震災前に飯舘村でカフェを営んでいらっしゃった市澤秀耕さんが、飯舘村の状況について教えてくださった。飯舘村で暮らしていた1643戸・4260人が震災後に他の地域に避難した。2017年に居住制限および避難指示が解除され、現在までに654戸(28%)・1643人(24%)が帰還して再び飯舘村で暮らしている(3戸・3人は不明)。また、飯舘村には共同意識を持った同姓の集団として、いくつかの「組」が存在するが、市澤さんの家系である市澤組は19戸のうち7戸が飯舘村に戻っているとのことだった。帰還していない12戸のうち、6戸は飯舘村と他の住居を行ったり来たりしている。市澤さんはカフェを福島市内に移しているため住居ごとの帰還はしていないが、定期的に飯舘村の自宅に戻って草刈りなどの整備をしていらっしゃるとのことだった。

市澤組の歴史を辿ってみると、天保の飢饉の時代に越後から移り住んで以来、ずっと飯舘村で生計を営んできたという。ここ50年に注目すれば、半世紀のうちに5戸が増えて2戸がなくなるという、微々たる変化しかなかったとのことだ。同じ組の家庭同士で強い結びつきがあり、1つか2つの溜め池を組で共有して生活をしていたため、家庭や家計の状況を互いに共有していたとのことだった。そのようにして長きに渡って生活基盤を共にしてきた市澤組が、2011年に突然離散し、他県や仮設住宅に移動することを余儀なくされた。市澤さんは、「過疎化は震災前からゆっくりとは進んでいた。しかし、今後20~30年かけて衰退してゆくはずだったものが、一瞬にして変わってしまった」と語ってくださった。市澤組の帰還しなかった12戸のうち2戸は、既に飯舘村の家を壊したという。

飯舘村は2017年から帰還ができるようになり、2018年に仮設住宅の期限が終了した。市澤さんいわく、東京電力としては「帰ることが健全」であり「帰れるのになんで帰らないんですか?」というような立場を取っているように思われるそうだ。しかし住民の立場からすれば、「居住制限が解除されたからといって、荒れ果てた廃棄物だらけの土地で、どうやって生きていくのか?」という現実が当然のように立ちはだかっている。産業の衰退以外にも帰還を困難にさせる問題がある。避難先の地域で医療を受けていた高齢者たちは、飯館村に戻ってしまうと病院に通う交通手段がない2。車を持たない高齢者は、帰還したくても帰還できない状況にあるとのことだ。また、住居に関して言えば、東京電力による住居への損害賠償は手厚いものではあったが、これは持ち家や土地に対する補償であるため、借家に住んでいた人は十分な補償を受けられず、金銭面での問題が帰還を難しくしている場合もあるとのことだった。

写真家の阿部さんは避難を余儀なくされた地域について、「コミュニティを破壊されたことに対する賠償はない」とおっしゃっていた。就職先の少なさ、また健康上の懸念から、若い世代や子育て世代はなかなか戻ってきにくい3。「70代、80代が戻って来ても、若い人が戻って来なければいずれ人はいなくなる。(帰還は)時間稼ぎでしかない」と厳しい現実を語っていた。地方の人口減少や産業の衰退は被災地に限った問題ではない。しかし、震災と原発事故が過疎化を著しく加速させてしまったこともまた事実である。

h_190318_kyoto_01_04.jpg

3. 現地の人たちは原発事故をどう捉えているのか

「反原発」を主張する人たちによって、「福島」は政治的思想と関連付けられたり、シンボルのように語られたりすることもある。しかし私がお話を聞かせて頂いた飯舘村や南相馬に暮らす人たちは、直接的な怒りとは違った、深い悲しみや憤り、そしてなお故郷とともに生きようとする覚悟のようなものを抱えていらっしゃると感じた。椏久里珈琲の市澤さんがおっしゃっていたように、「反省は大事だが、『○○が悪い』と人のせいにしても、生計の目途を自分で立てていくしかない」というのが現実なのであろう。印象的であったのは、「放射性物質の危険性について、正しい説明をしてほしい。正しい数値を示してほしい」といった声が(少なくとも表面的には)ほとんど聞こえなかったことだ。

ガイドの高田さんは原発事故発生後、一時的に他県に避難してから南相馬の自宅に戻ったとのことだが、当時、再び外の地域に出るには放射性物質の検査を通過しなければならなかった。高田さんはあえて自宅の庭の土が付いたままの靴で検査を受けたが、基準値を下回る数値が出たという。そのため高田さんは「うちは放射能が薄い」と思うに至った。その判断はもちろん測定された数値に基づいたものが、高田さんの言葉には“そうであって欲しい”という切実な響きが感じられた。

写真家の阿部さんは、原発事故があった約2か月後に地域住民が立ち寄れる測定所を自ら立ち上げたが、訪れた人に危険物質の濃度が高いという事実だけを知らせても救いにはならないと感じたという。そして、「おどかしっぱなしは嫌だ」という思いから、ミネラルを含んだフルボ酸飲料の配布を始めたとのことだ。阿部さんは市民団体の活動には「騒ぐのは簡単だけれど⋯⋯」とやや懐疑的な様子で、そこで暮らす人たちの「心の問題」を重視なさっていた。

タクシー運転手の庄司さんは移動中に「今から数値が高い地域に入りますから、息止めててくださいね」と冗談交じりにおっしゃった。実際に放射性物質の数値が高い地点では「裏の竹林から(物質が)ペロッと出てきちゃったねえ」と穏やかにおっしゃっていた。私は笑っていいのか分からなかった。神妙な顔をするのも違う気がした。この言葉を文面にすると途端に重くなってしまうが、庄子さんは少しのユーモアを込めて言っていたと思う。怒りや嘆きだけを背負って日常を過ごしてゆくことはできない。現実を見据えて、笑いも幸福も追求しながら生きるのが人間だ。庄子さんの言葉が、原発のまちで暮らす悲しみを表しているように感じた。

h_190318_kyoto_01_05.jpg

南相馬市消防・防災センターには災害への備えについての掲示があったが、「地震が起きたらどうする?」「津波が来る、どうする?」と並んで「原子力災害が起こったら」というトピックがあった4。南相馬に住む人たちにとって、原子力災害は当然「避けたい事態」であろうが、現実的に「備えるべき/備えざるをえない事態」でもあるのだと思い知らされた。未来に向けて「反原発」「脱原発」という主張をすることの是非を私は問えない。しかし今、被災地に生きる人々にとっては、理想的なエネルギーや目指すべき国家、正義といったものを論じる以上に、目の前に在る問題に対処する方策が現実味をもって受け止められているのではないだろうか。

4. 災害のしわ寄せはどこへ向かうのか

最後に、現地で見聞きしたことから離れるが、自身の研究分野と関連を述べたい。私は日本語教育を専門としており、外国人労働者の問題に関心を持っている。昨年、技能実習生として来日した外国人が福島第一原発の除染作業に従事させられていたという報道があった。除染作業の危険性について説明されないまま作業をしていた実習生もおり、大きな問題として扱われた。2019年2月13日の朝日新聞には「危険と分かれば来なかった」というベトナム人実習生の告発が掲載されている。一方で日本と母国との賃金格差は、彼らが来日する大きな動機となっている。

3.11の以前・以後に何があったのか。首都圏に供給される電力を賄うために、地方がそのリスクを引き受け、さらには後片付けが途上国の人々の手にまで回ってゆく。その背後には災害が起こる以前から堆積している課題があることに、私たちは目を背けてはならないと考える。

h_190318_kyoto_01_06.jpg

〈おわりに〉

「政府の報道は、復興が進んでいるとか明るい話題ばかりを書く。そうじゃない部分を伝えてほしい。奪われたものを知ってほしい」椏久里珈琲の市澤美由紀さんは悔しさを滲ませながら語っていた。その気持ちに少しでも応えられたらという思いでこの報告書を書いた。市澤秀耕さんの「8年経ってやっと『総じて』言えるようになってきた」という言葉が重く響いた。被災地に暮らす人々にとって、8年前は決して過ぎ去ったものではなく、傷跡は今も生々しく残っている。

福島に足を運んでみなければ見えなかった景色をたくさん知った。町に点在する汚染土の仮置き場には、黒いシートをかけた土の塊が積み上げられていた。やわらかな田園風景の中にぽつりぽつりと、放射性物質の濃度を示す赤い電光掲示が光っていた。いまだに除染が進んでいない区域への道は通行止めで区切られ、青いアジサイだけが帰還困難区域の奥まで咲き続けていた。今まで知らなかった福島の魅力にもたくさん触れた。地元の米で作られたおにぎりや日本酒、今野畜産のメンチカツ、道の駅で食べたまんじゅうアイス、どれも忘れられないほどに美味しかった。災害と事故によって失われたもの、そして残すべきものを数多く学んだ研修旅行となった。

貴重なお話をお聞かせいただいた福島県の皆様、本研修を企画してくださった関谷先生、学びをより深いものにしてくださった参加者の皆さんに心より感謝を申し上げます。

ふくしま復興ステーション 復興情報ポータルサイト 2019/8/15閲覧
https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/26-13.html
村内のいいたてクリニックは2016年から再開し、週2回午前のみ診療を行っている。上記サイト参照。
復興庁(2017)「住民意向調査速報版」飯舘村の避難指示解除後の帰還の意向調査によれば、「戻りたいと考えている(将来的な希望も含む)」が33.5%、「まだ判断がつかない」が19.7%、「戻らないと決めている」が30.8%であった。また、戻らないと決めている理由としては、「避難先の方が生活利便性が高いから」が51.2%、「宅地・農地以外の山林や河川等の除染がまだだから」が46.3%、「医療環境に不安があるから」が45.0%、「生活に必要な商業施設などが元に戻りそうにないから」が37.9%、「放射線量が低下せず不安だから」が37.1%で上位5項目となっている。
南相馬市消防・防災センターパンフレットにも記載がある。
https://www.city.minamisoma.lg.jp/material/files/group/8/20160818-091919.pdf