島根研修「食・地域・継承」 報告 藤田 奈比古

島根研修「食・地域・継承」 報告 藤田 奈比古

日時
2019年2月22日(金)〜24日(日)
場所
島根県松江市および周辺地域
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクトH「生命のポイエーシスと多文化共生のプラクシス」
協力
三重大学生物資源学部、島根大学総合理工学部

本研修は以下の日程で行われた。

  • 2/22 米子空港→清水寺(安来)、昼食に精進料理→足立美術館(安来)→松江へ移動。三重大学および島根大学学生を交えて懇親会。
  • 2/23 松江城→小泉八雲旧宅→松江歴史館→臨水亭で昼食、茶事→出雲へ移動。出雲大社、島根県立古代出雲歴史博物館→松江に戻り、懇親会。
  • 2/24 村松家にて全日発表会、ディスカッション。

本研修の狙いは、「「地域」の「食・農」「建築・風景」を通して共同体の歴史と記憶とはどのように「継承」され、「芸術」によって活性化されうるのかという主題について、新たな視野を拓く」ことであった。私にとってこの目標は興味深いものであったが、今回の研修に私が参加したのは喫緊で切実な問題と絡んだ動機によるものだった。それは、私が相続(法的な「継承」である)する予定の実家(古民家)が著しく老朽化しており、何らかの手を打たねばならないという状況を抱えていることだった。事態の打開に向けて本研修の特に村松家という古民家の修復、利用のあり方から示唆を得たいという思いと、私の出身地であり育った三重大学の研究室との意見交換ができる、という事が大きな関心の対象だった。

1日目 清水寺、足立美術館

米子空港に中井毅尚先生(三重大学)とwさん(三重大学大学院生)、mさん(島根大学大学院生)、浅井菜保子さん(版画家)が迎えに来て下さり、合流し安来へ移動した。車を降りて山麓に始まる参道を進むと、そう山深くはないものの木立に囲まれた山寺のたたずまいが開ける。清水寺は6世紀に開山したという。清水山の斜面に伽藍、三重塔を配しており、別世界の様相を呈している。重要文化財の根本堂のはす向かいに杉の巨木が生えており、特異な空間が成立していた。

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境内の宿「紅葉館」で昼食を取る。旅館風の豪華な精進料理を椅子席で食べる。味は薄めだが、甘みの強い関西風とは異なる印象を受けた。イカの刺身や鰻の見た目、食感を模した品目があったが、ここまで工夫するのかと感慨を持った(しかも美味しい)

足立美術館は見晴らしの良い安来平野に位置し、横山大観を中心とした近代日本画および陶器のコレクションと、周辺の山々をも借景とした広大な庭を擁する。これらを築き上げた実業家足立全康(1899-1990)は明治末に生まれた人物であり、決して裕福でない出自から立身出世を遂げている。私が専門としている日本映画の監督でいえば、溝口健二と、内田吐夢(何れも1898年生まれ)と一歳違いで同じ時代を生きた。それぞれの後半生で「日本文化」というとらえがたい物への追求が、全く異なる形ではあるが表出されていることに面白い符合を感じた。

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庭園について、「日本一」を謳うものの、巨大さは面白いとしても、ガラス越しにみせるという趣向は十分に味わうことができないように思われたが、フレームという装置について考えさせる好例とはなっており、特殊な視覚体験をもたらしてはいた。その意味でも、画と庭とがいかに異なるのかということを強烈に意識させる場として面白いと思う。

2日目 松江城 都市の象徴的場所

徒歩で松江城へ向かう。今でこそ国宝に指定されているが、明治時代一度は取り壊されるところだったのを士族が中心となり守り抜いた経緯がある。失われたものは返ってこないが、守り、継承されたものはいつの日か予想外の力を持ちうる。現在松江城は松江市の誇る財産であり、観光資源としても不可欠であることは間違いない。

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城下町において城は藩主の本拠として機能的にも象徴的にも中枢であった。明治以降の日本でほとんどの城郭はどちらの役割も一旦失った後、観光資源としての価値を帯びるようになった。松江においては、しかし城は単なる観光資源だけでなく、この地で洗練された文化の象徴として、高名な領主松平不昧と結びつき地域住民にとって特別な意味を持っているように感じた。

例えば、松江歴史館ではその設計にあたり、天守閣が縁側から見えるかどうかということが重要な課題として設定されたと設計者の矢田和弘さんからお話をきくことができた。また、市内の景観でも天守閣が見えやすいように感じたが、調べた所松江市は松江城周辺の地区を美観保護のために高さ制限(12メートル、三階まで)を設けており、ある程度それは成功していたと思う。このように松江市街、とりわけ元々武家地であった橋北地域では松江城を中心とした景観の組織が進められている一方で、橋を渡った反対側の橋南地域はそのような傾向が薄くなる。これについては最終日に訪れた村松家との関係で後述したい。

三重大学の大学院生のwさんは天守閣の温湿度調査を行っており、温湿度計のデータ回収を行っていた。階によって温湿度が異なるらしい。

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小泉八雲記念館および旧宅の記念館では当時のジャーナリズムの動きや国際社会の動向に関連づけて、ギリシャ系の生まれであるラフカディオ・ハーンの軌跡を理解することができた。旧宅は保存状態がよく、ハーンが室内から望んで楽しんでいたという庭は小さいながらも大変美しかった。山陰に独特のやわらかい光が印象的で、平安と生命の輝きがそこでは感じ取れた。

松江歴史館は、家老の屋敷をイメージして設計されていたが、戸惑う程スケールが大きい。歴史館を設計した矢田さんから設計の概略と、千利休が建てたという茶室について説明を受けた。茶室は千利休が建てた後、移築解体を経ていたものを復元したという。展示については、宍道湖畔の泥沢地が都市になっていく経過について特に興味をそそられた。併設で行われていたあいおいニッセイ同和損保コレクション「松江市の花「つばき」の世界」展では近代洋画を中心に椿の見応えある絵が揃えられていた。確かに松江市内では椿をよく見かけた。それが城下町の風情とよく合っていたこととあわせ、本展は松江の雅やかな雰囲気を高めるのに貢献していたように思う。

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その後我々は自動車で料亭の臨水亭へ向かった。座敷からは大橋川と市街地が望まれ、眺望にふっと心躍った。松江きっての料亭ということで緊張しつつ、座敷の格というものについて思いをめぐらしたりしていたが、気がつくとお弁当の繊細な味わいに集中していた。特に、味噌汁のしじみが信じがたいほどよく肥えていて旨かったのが忘れられない。

食後、松江の裏千家の師範の方に茶事の手ほどきをいただき、これも普段茶の心得のない者として緊張したが、学生にも分かりやすく懇切かつ簡潔に指南がされ、穏やかな雰囲気ながらも知的な刺激を参加者が共有していたように思う。

なお、ここでも茶道の不昧流、あるいは「不昧公好み」という単語で松平不昧の名が繰り返し言及されており、松江の文化における不昧の存在感をしみじみと感じたが、不昧のために考案されたことでも有名な郷土料理「スズキの奉書焼き」を戦後いち早く復活させたのが臨水亭である。 

宍道湖畔を車で走り、出雲地方へ向かう。出雲大社は賑わいをみせていた。大社造りの本殿は見えにくいが、戦後建てられた拝殿がどっしりとした構えを誇っていた。出雲大社はその始まりから「高さ」を追求する社として知られており、その点が伊勢神宮をはじめ他の神社と一線を画す固有なものである。

古代出雲歴史博物館では、古代に存在したと思われる高層の本殿(約48メートル)の復元案を始め、神話の時代から現代に至るまで出雲大社だけでなく出雲地方の歴史を多くの出土品の展示と充実したパネルが目を引く。

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まず、入口に展示されている出土した本殿の柱は、腐蝕のせいか異様な形をしておりすさまじい迫力をみせていた。荒神谷遺跡から出土した350本以上の銅剣は圧倒的であり、1本1本を注視しているだけでは味わえない、理解を越えた古代の力というものを直感させる。それは、大陸からこれらの物を運び込み、傷つかないように何らかの理由で埋めた力そのものであり、地中で封印されていた歳月の重みと言ってもよいかもしれない。これらと隣接して中国や朝鮮ほか東アジアの青銅器の展示もあり、広域の中で出雲を位置付けさせるような試みがなされていた。「神話回廊」という部分では、日本の神話の近世、近代における受容を紹介しながらいかに解釈されてきたかについて展示がなされており、国学以降国粋主義的な性質を強めた神話のあり方を敢えて見据えさせることで、全体の展示を通じての出雲理解ひいては日本の歴史の理解を引き締めるような役割が果たされていた。

当館は古代出雲および神話の世界へのロマンを掻き立てるかもしれないが、展示の対象を神秘化させないという姿勢が一貫して当館では取られていると言える。槇文彦設計のガラスと鉄で覆われた箱の主張を抑えた外観はこの博物館にふさわしい印象を与え、全体として非常に成功した優れた博物館であると感じた。

出雲から松江に戻る途中で、築地松を見かけた。随分前に築地松のことを知り、一度みてみたいと思っていたので中井先生に言うと、すぐに車を返してしばらく見学時間を取って下さった。コンビニに面してそびえ立つ築地松は中井先生曰く立派な部類の物らしく、見事だった。

3日目 村松家 住まう家から集う家へ

最終日は朝早くから村松家に集まり、発表会とディスカッションを一日中行った。村松家は松江城と大橋川を挟んで反対側の地区に位置している。元々は足軽の長屋などが広がっていた地区だった。官庁街に生まれ変わった松江城周辺と異なり、飲食店などは少なく閑静である。明治期に建てられた村松家住宅は、近代の日本家屋のたたずまいを良く残していたが、十年ほど前から空き家となっていた。空き家となってから建物と庭の管理がむずかしかったが、島根大学との関係で中井先生が中心となって調査、修復が進められ、松江市も関わって国に登録有形文化財の申請ができるようになり、2017年に登録された。

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学生、研究員による発表と意見交換は座敷で行われた。和室でこういった会が行われるのは珍しい。参加者は思い思いの姿勢で話をしたり、聞いたりでき、会議室とは全く異なる場(文字通り「座」と言った方がふさわしいかもしれない)が成立していた。

学生の発表で、島根大学の学生は旅館のリノベーションについて計画から施工まで従事した報告と木造家屋における屋根の異なる素材が室温と音環境にもたらす違いについての報告があり、いずれも興味深かった。特に、屋根の素材については、瓦とガルバリウム鋼板が取り上げられていたが、後日自分の実家の屋根の修理で両者のいずれを選ぶかの話があり、この発表を想起した。

私は、築150年になる実家についてスライドを作成し発表した。こういった個人的な話をすることに抵抗感はあったが、「記憶、継承」そのものを扱い、村松家のあり方とも密接に関連して検討材料を提示できると考え思い切って発表をさせていただいた。

古民家である私の実家が空き家となっており、損傷が近年進んでいることや、観光地とは異なる状況下での利用方法を考えねばならないことなどを提示し、参加者に意見を伺った。島根大学の小林先生からは、全国でも空き家が増えており、島根でも価値の高い民家が気付いたら壊されていることがよくあり、胸を痛めているが、解決策は出せていない、といったことを伺った。打開策を得ることはできなかったが、日本中でこういった問題が広く共有されているという実感を持つ事ができた。

一方、村松家をめぐっては、ここでグループ展などを開いている浅井さんからこれまでの取り組みについて報告があった。松江を中心に活動している他の芸術家の方々や町内会の方が、今後さらに村松家の利用を活発に行っていきたいという旨のことを発言しており、その潜在的な魅力がさらに汲み出されていく予感が得られた。ここでデッサンの会などを開いたことがある画家の方がこの家は光が美しい、と言っていたが、まさに私も同じ事を感じていた。冬の日本海側特有の光線が、広めの開口部から豊富に室内に注がれ、直接光が当たらない空間には庭からの反射光が入る。屋内全体で時間の経過とともに、変わりやすい山陰の天候と相まって豊かな表情をみせる。

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昼食は、松江を中心に展開しているスーパーマーケット「みしまや」の地元食品で作られた弁当をいただいた。食後にみしまやの三島隆史社長から直々に地元密着で進めている企業理念の実践や、東京で島根産の米などの人気が近年上がっている状況への対応等について説明を受けたが、弁当の美味しさに裏打ちされて説得力が高く、精力的にうまく展開している事業のようでこの地域がうらやましいと思った。安くて大量生産されているような品物は大手スーパーなどに任せて、地元産品を中心に小回りを利かすことに専念できてむしろ楽になったところもある、と三島社長は語っており、少なくとも食品に関しては島根の豊かな食文化を背景に棲み分けが進んでいることに膝を打った。

村松先生による村松家の案内は「家」という建築とそこに広がる風景と関わる共同体の記憶とその継承という本研修のテーマそのもので、同時に今回訪れた場所で鍵となった庭、茶室を含んで過去と現在の繫がりを感得させていた。

例えば、生活に余裕がある松江の市民の嗜みとして当家に備えられた茶室が現在珍重され、茶会をここで開きたいという希望が口にされるのを目の当たりにし、村松家が現在持つ意味が、時間の蓄積というかけがえのないものによるものだということがよく分かった。それはここに住んでいた人たちの記憶や思いと結びついたものである。すなわち、民家は住み手の意志や志向、ライフスタイルを反映して居住期間に変化し続けるため、意匠だけでなく至る所に認められる増改築の跡や、拭い去り得ない住み手達の痕跡が、この場所に個性を与えている。それは時に重苦しいものになるかもしれないが、村松家の座敷に集って「底冷えがきつい」などと口にしながらも居心地良さそうに歓談する人々を見ていると、場所の個性がその場の人々同士の関係を持つことを支えているように思えてならない。

村松家から引き出される重要なポイントは三つある。まず、その値打ちが適切に評価されること、次に予算が設けられ修復等がなされること、そして新しい利用方法が地域に創出されることである。まず島根大学の木造建築を専門とする中井先生と研究室の協力が全体を通じて決定的な役割を果たした。その後に、地域で活動する芸術家とのつながりが模索され、さらに町内での活用が進められ、今後への見通しを開いている。松江は観光都市であるが、村松家の位置する地域は観光客があまり足を運ばないエリアであり、そういった場所でのこの成果は示唆に富む。

本研修で村松家が住まう家から、集う家へと転換を遂げていることを目の当たりにしたが、私の実家もそうなりつつある途上であるように思えるが、どうなっていくのだろうか。

報告日:2019年3月14日