2017年度第三回・都立高校での教育現場をめぐる研修 報告 藤田 奈比古

日時
2017年12月11日(月)
場所
東京都立大山高等学校
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト2「共生のプラクシス──市民社会と地域という思想」

この活動への参加動機について

教育に関心があり、今回は都立高校の現場で教員の方々と対話することができると聞き参加をした。地方の公立高校出身の自分にとって、都内の都立高校に入ることは貴重な体験でもある。参加してみて、後述のようにこれまで深く考えてこなかった問いにぶつかり、大山高校という極めて具体的な一点から、日本の教育政策について考える機会になり、さらには思いがけず批判的な自己の内省の機会となった。

哲学対話について

約20人の教員、来訪者と3人の大学院生で「哲学対話」が始まった。「なぜ数学を勉強するのか」という具体的な問いをめぐって議論がスタートした。高校で学ぶ数学は世の中で役に立たないとよく生徒が言うという事実を共有した上で、それぞれの参加者が発言していく。

参加者は円形に座り、発言をすると次の発言者にぬいぐるみを投げて発言のリレーを回す。投げるという動作で議論を繋げていくことは、難しい問いに対してしばしば我々の姿勢や構えが文字通り硬くなってしまうことを断続的にほぐす効果があって面白いと感じた。結局、この問いだけで参加者の対話は盛り上がりを見せ、別の問いに移ることはなかった。私も一度発言をした。

高校で数学を学ぶ意味とは何だろうか。自分が高校生の時も、特に苦手な単元にあたったときなどにしばしば友人や親、教師そして自分自身に問いかけた記憶を想起した。特に日常生活と関係の薄い単元については、「論理的思考を養う」「頭の体操になる」といった答えがそのときは返ってきた。それ以上問いかけても仕方がなさそうなので、ひとまず納得したように思う。しかし、納得したらそれで問題なく勉強できるものなのだろうか。

大山高校の生徒の中で簡単に納得して折り合いをつけて勉強するような生徒は少数派らしい。「この子たちは自分にすごく素直なんです」といったことが何度も聞かれた。私も好きでないあるいは得意でない勉強は何かと理由をつけ避けようとしたものだが、しかし折り合いを付けて勉強をした。だが、もっと素直に「難しいし、やる意味も分からないし、イヤだ」と例えば数学の勉強を投げ出していた可能性もあった。むしろなぜ自分は曲がりなりにも数学──他の教科でも良いし高校での勉強そのものでも良い──を真面目にやろうと思ったのか。そのことで今の自分にどれほど貢献があったのだろうか。こうしたことが疑問に浮かぶ。

これらの疑問に初めて真剣に考え、私は目の前で進んでいく「対話」の行方を追いながら同時に自分の過去を想起し続けた。私が大学生になってから、アルバイトで塾講師や家庭教師をしていたときは、やる気の乏しい生徒には何らかの達成感を感じられるように丁寧に教えたり、将来の夢を聞いてそれに近づくために勉強が必要だ、といったことを説いたりして、話術で笑いを取って毎回しのぎつつやる気を少しずつでも引き出そうとしていたように思う。しかし、自分は本当に高校生たちにその時真剣に向き合っていたのだろうか。

内省が深まるにつれ、これまでの自分の学びや、教育(特に高校課程)について自分がこれまで漫然と抱いていた考えに対して疑念が徐々に高まり、私の思索は自己批判的な性格を強くしていった。

私は思いがけず自分のアイデンティティが揺らぐレベルで内的な問答を進めてしまい、議論への参加はそれほど積極的にできなかったが、他の参加者はどうだっただろうか。皆、前の発言者に対する応答を丁寧に行いながら、自分の意見を活発に述べていた。数学科の教員は、高校生が数学を学ぶ意味とは数学の面白さや普遍性に触れることである、といった方向で共通して発言していたことが印象に残った。数学の先生は、そもそも原則的には数学が得意だったり好きだったりするので数学を教えられるようになったのであり、数学をできない人や数学が嫌いな人の気持ちはどうしても分からないのではないか、と感じた。これは数学に限ったことでなく、私の経験上、学校の先生は基本的に勉強をする、または勉強ができる人達なのであって、やらない人やできない人の気持ちがあまり分からないことが多い。さらに言えば勤勉な人に怠惰な人の気持ちはなかなか分からない。数学の先生達の思いが、生徒達に届くためにはどのような姿勢が、取り組みが求められるのだろうか。今回はそこまで現場レベルで深めることはできなかったが、現実に教育の現場にもっと触れて今後こういったことを実践的に検討する場があれば考えてみたいと思う。

学校が教育施設である以上、本来生徒は勉強をするために学校に来ているのだから、勉強という目的は貫徹されねばならない。しかしそう割り切って思考停止することに、今回の哲学対話は待ったをかける。参加者は立ち止まって、根本的な問題に向かわねばならなくなっただろう。それは落としどころを簡単に見つけられるような答えの出ない問いであり、場合によっては一生考え続けなければならない問いであるかもしれない。今回の問いは具体的な科目を取り上げながらも「なぜ勉強をしなくては/させなくてはならないのか」という根本的な問いに通じており、自分は予想していなかった深みに落ちて苦しいものがあった。

「哲学対話」を終え、私は駅までの道すがら参加した他の学生と話し合った。彼は「数学をやる理由は、数学が役に立つからだ、数学を学べば金が稼げるからだ、とはっきり教えたら良いのに」と説き、確かにそういった発言が今回は出なかった(その学生も明示的にそうした発言をしてはいなかった)と私は気づいた。議論においても梶谷先生から、アメリカに行ったことのある日本人の高校生が「アメリカの高校生は日本の高校生と比べて数学ができる訳ではないが、彼らは数学をどう利用するのかはずっと得意である」と発言したことが紹介されていた。今回は数学に絞ったが、教育の目的をどう定めるのか、という点でプラグマティックな性格をより出しているアメリカと比べて日本の教育がどうであるのか、あるいは大山高校ではどうしていくのか、といった問いが立てられる。それは究極的にはどんな人間を育てていくのか、という社会全体のあり方についての問いであり、ひいては我々一人ひとりがどのように自分の能力を活かし、育てながら如何に生きていくのか、如何に幸福を追究するのか、という深い問いにつながっていると私は考える。

日本社会はこうした深いレベルでの問いを等閑視し、ひとまず括弧に入れた上で教育について政策が進められ、現場も実践が行われてきたと私は考える(それは教育だけでなく労働、福祉、法制、国土開発、農林とあらゆる国民生活の相をめぐって共通しているだろう)。そのような過程において、自明のものとみなされた常識や社会通念が官僚や教育委員会を律し、現場では生徒にそれが振りかざされてきた。「哲学対話」は硬直した教育観や教育目標を現場レベルで揺るがすダイナミズムを持つ取り組みになり得ると今回個人的には実感した。

もっとも、厳しい現場に日々立っている教員の方々にとってのインパクトがどれほどなのかは推し量るほかはない。そして私は教育に直接携わる者ではないので、現場に立つ一人でも多くの人に「哲学対話」の場に参与してもらい、色々な事を考え直す、発見する機会になることを期待することしか今の私にはできない。

報告日:2017年12月25日