2017年度第二回・都立高校での教育現場をめぐる研修 報告 中川 亮

日時
2017年11月6日(月)
場所
東京都立大山高等学校
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト2「共生のプラクシス──市民社会と地域という思想」

本研修は、東京都中部学校経営支援センター指定学力向上推進校の一つである都立大山高等学校が運営改革の一環として実施している教員研修に参加することを通じて、中等教育の現場に存在する様々な問題を考察するものである。この教員研修は、NPO法人「子どもの成長と環境を考える会」と本学梶谷真司教授が連携してコーディネートしているもので、哲学対話の手法を用いたディスカッションの形式で実施される。今回の哲学対話では、ほぼ全ての教員と外部からの参加者が理想の授業をテーマに意見を交換した。

私立中高一貫男子校出身の報告者にとって、都立高校の教育現場はほとんど未知であった。しかし、多くの人々にとって教育とは私立男子校のそれとは決して一致しないのであり、報告者が日本の中等教育に対して持っている感覚は極めて特殊であると言わざるを得ない。市民社会は教育に支えられており、そこで生活する市民が示す多様性の一部は受けた教育の多様性に起因する。であるとすれば、教育に将来携わる可能性のある身として、学校教育の極めて特殊な一面しか知らないことには問題がある。報告者が今回の実習に参加した動機は、この経験の欠如を少しでも埋め合わせることにあった。

研修の核は哲学対話であったが、これに先立って報告者らは5限と6限の授業をいくつか見学した。一般入試によって大学へ進学する生徒が少なく、教育が難しいとされる高校ではあったが、授業は概して落ち着いた雰囲気で、寝ている生徒や雑談する生徒も散見されたものの、報告者の経験と比較して特に悪いという印象はなかった。率直に言って、彼らからはいたって「普通」の高校生たちであるという印象を受けた。授業の形式と内容も一般的な部類のもので、板書の写しや問題演習といったタスクを教員の指示通りにこなすものが多かった。

見学できた授業から推察するに、先生方は生徒の学習意欲を喚起するのに苦労しているようであった。化粧品など身近な話題を持ち出して心理的距離を縮めたり、テストでの出題を匂わせて生徒の関心に寄り添う素振りを見せたりしていたが、生徒の学習意欲が本当に喚起されていたかと言えば必ずしもそうではないだろう。先生方が生徒の側に寄り添おうとしている一方で、生徒たちも授業に少なからず協力的であり、先生方の投げかける質問に対して割合素早く返答するなど生徒の側からの歩み寄りも見られた。

授業が成立するためにはこうした参加者たちの協働が不可欠であることは言うまでもない。ただ、ここで言う参加者の協働は、単に言葉のキャッチボールに留まるのではなく、相互の利益を調整する過程となるのが理想であろう。先生の質問に対して生徒が答える、あるいは生徒の質問に先生が回答するという相互行為の裏に通常想定されているのは、知識・技能などを確実に伝達し教員評価を高めるという教員側の利益・関心と、大学受験対策をしたい、あるいは教養・知識・技能等を得たいという生徒側の利益・関心の調整である。ところが大山高校の場合、卒業生の多くは大学の一般入試を受験しないため、大学受験対策や教養の獲得などが必ずしも生徒たちにとって自明な利益となっていない。それゆえ、教科書に沿った授業の内容そのものに興味を引きつけてモチベーションを高めようとする先生方と授業を聞く生徒たちとの間にはある種のかみ合わなさが生じてしまってはいないだろうか。

おそらくこうした一種のかみ合わなさは、先生方の授業運営に対する義務感と相互作用している。単元を教えきらなければならないというプレッシャーの下では、このかみ合わなさに敏感である先生ほど焦燥感を募らせていくだろう。この傾向は若手の先生方にも顕著であったように感じる。先生と生徒の両方が諦観してしまっている授業も見ていて苦しいが、お互いに歩み寄っていながらどこかうまくいっていない授業にも息の詰まるものがある。「息苦しさのあるこんな授業をし続けて/受け続けて最終的にどれほど報われるのか」という一見反教育的な問いの重要性を浮き彫りにする状況がそこにはあった。

授業参観に続く哲学対話では、先生方が担当教科に対して持っている愛着を順に聞いたうえで、「理想の授業とは何か」というテーマでディスカッションを行った。

多くの先生方は自らの教科を好きでも嫌いでもないと述べたが、何らかの愛着は感じているようで、担当する教科の面白さを伝えることや教科を通じた教育活動に熱意を持っていることが伺えた。理想の授業については、生徒の人生に何らかの影響を与えられるような授業が理想であるとする見解や、テレビドラマのように続きが楽しみになるよう構成を考えることが重要であるといった見解があったほか、教員自身が生徒とのやりとりを通じて変化していくことを期待していると述べる先生もいた。報告者はこれらの意見に同意する。ただ、質問の性格上やむをえないとはいえ、こうした抽象的議論が大半で、理想の実現のために何ができるのかといった議論には手が届かなかったのには少々歯がゆい思いをした。たとえば一回の授業で必ず人生を面白くするような知識や情報を一つ与えたいと述べた参加者がいたが、その「人生を面白くする知識・情報」とは何で、生徒にとってどのように面白いのかといった疑問を議論する時間は無かった。どこか教員の理想に寄り過ぎた議論が展開していたため、「誰にとって理想の授業なのか」という問いかけも必要であっただろう。また、先生と生徒のすれ違いや息苦しさといった上述の問題にも触れることができなかった。このような議論の積み残しは対話の継続を促すために哲学対話の手法が重視するポイントであり、ポジティブに捉えたい。

ただ、この教員研修にほとんど意味を見出していないと思われる先生が少なくなかったことは気になる点であった。運営改善の方向性に納得していないことを意見として述べる勇気をくじくような上下関係や組織構造が存在するのであろう。しかし、配慮することと忌憚なく意見を述べることとは矛盾しないのであるし、そうした意見の表明を助けるべく用意されたのが哲学対話という仕組みのはずである。教員研修の効果を高めるためには、研修の主体が異論を述べやすいような土壌を用意することも無駄ではないのではないか。

第二回「都立高校の教育現場をめぐる研修」の内容は以上のようなものであった。研修に参加して報告者がとりわけ強く意識させられたのは、教育される側を見つめることの重要性である。教育する側の論理からは教育される側への配慮がいとも簡単に抜け落ちてゆくものであり、無論その責任は教育する側にある。しかしその単純な事実ですら実は見落とされがちなのである。いわゆる進学校と呼ばれるような生徒のニーズがほぼ自明の教育現場しか知らなかった報告者にとって、この事実の重要性を体感した意味は大きい。今後も日本の教育現場に注目し、さまざまな問題を一つ一つ考察していきたい。

報告日:2017年11月18日