Sara Heinämaa Open Lecture and Workshop "Gender and Embodiment"報告 伊藤 寧美

Sara Heinämaa Open Lecture and Workshop "Gender and Embodiment"報告 伊藤 寧美

日時:
2015年3月27日(金)16:00-18:30
場所:
東京大学駒場キャンパス 18号館4階コラボレーションルーム3
講演者:
Sara Heinämaa (University of Jyväskylä/University of Helsinki)
中村彩(東京大学大学院総合文化研究科博士課程/IHSプログラム生)
主催:
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト2「共生のプラクシス──市民社会と地域という思想」
共催:
東京大学大学院総合文化研究科・教養学部附属 共生のための国際哲学研究センター(UTCP)
協力:
大阪大学大学院文学研究科 倫理学・臨床哲学研究室

本講演会は、ユヴァスキュラ大学のフェミニズム現象学者であるサラ・ヘイナマー教授の来日にあわせ、大阪大学、東京大学それぞれで開催されたシンポジウムのうちの一つである。本報告書では、大阪大学のイベントに次いで行われた東京大学での講演会について述べたい。

本シンポジウムは、IHSプログラム生である崎濱紗奈さんによる、大阪大学でのヘイナマー教授の講演会を聴講した際の報告に始まり、ヘイナマー教授の基調講演、ディスカッサントとして参加したUTCP特任研究員の筒井晴香さんによる特定質問、IHSプログラム生である中村彩さんによる発表、そしてフロア全体の質疑応答とディスカッションという形で進められた。

ヘイナマー教授の講演のタイトルは Gender and Embodiment だった。現象学において「セックス」「ジェンダー」の概念がどのように構築され、同時にフェミニズムの観点からどのように批判あるいは援用されてきたのか、という点を中心にお話があった。私自身は哲学に関して背景知識がなく、新しく勉強しようという姿勢で臨んだ会であった。だが、フェミニズムの発想をもって、哲学における男性中心主義的、異性愛中心主義的な前提を問い直す試みは、私自身が軸足を置く学問分野においても多くのフェミニストが尽力してきている作業であり、その問題意識には強い共感を覚えた。

事前に配布されたヘイナマー教授のペーパー、また当日の講演を伺って最も関心を持ち、また深く知りたいと思ったのは、理論を組み立てていく上での「男/女」の二分法が本質主義へ転じる危うさである。ディスカッサントの筒井さんもまさにその点を質疑の中で問われていた。ヘイナマー教授自身、コインの裏表である、と述べていたが、カテゴリーの問題を論じる際には、「男/女」を分けてしまうことの危うさと、「みな人間である」としてすべての差異を回収する言説の危うさのバランスを注意深く見極める必要がある。ともすれば、後者の言説は、とりわけ差別の問題を語る際には、社会における「理想」として用いられることがしばしばある中、差異に注目し議論を組み立てなければならないと考えさせられた。

中村さんの発表は、シモーヌ・ド・ボーヴォワールが、自身の長年のパートナーであったジャン=ポール・サルトルの晩年を記した『別れの儀式』の読解から、老いと弱さの問題を取り上げていた。ボーヴォワールは、晩年のサルトルが、老いて死にゆく自身を「人生の締めくくりに向かう」と述べ、また彼の秘書であるピエール・ヴィクトールの名を挙げながら「未来」や「次世代」について強く意識していたことを取り上げる。だが、そのような未来を想定することが出来る特権性をボーヴォワールは批判してもいたという点が指摘された。

また、知的階級の男性であり、著名人でもあったサルトルの、老いて心身に障害を抱えることになった「弱さ」の描写について、本書の筆者であるボーヴォワールに対して批判が向けられた点を取り上げ、中村さんは「老い」や「弱さ」へのタブー視が現れていると考察する。人間であれば当然いずれは直面せざるを得ない「老い」の問題が、とりわけ社会的に高い地位にあったサルトルに対してはなぜタブー視されるのか。「老い」や「弱さ」の問題や深刻さが、個々人の社会的、文化的立場や背景、特権によって大きく左右されるという点に切り込んだ発表だった。

講演会の後半の質疑は、老いや弱さの問題を深く掘り下げる内容となった。私自身の関心にひきつけて挙げれば、二つ大きな問いがあったように思う。一つは、老いについて、「老年」を指す時のライフスパンがどのように、あるいはどれほどの長さとして人々に想定されているのか、という問題である。「健康的」な人であれば、70代80代を人生の晩年と捉えるだろう。他方、病気を抱え余命宣告を受けた人にとっては、例えば20代が人生の終わりと想定され得るし、その人の抱える弱さもまた80代の人の弱さとは似て非なるものでもある。「老い」を語る際に、そしてそれが「人生の終わり」である、という表現がなされる場合、年齢や障害といった指標が、医学的な指標とは別に、経験としては決して一律ではないことをいかに踏まえて語るべきか、問題提起があった。

もう一点は、福島の原発事故に関わる避難民の研究をされている方からの問題提起であった。成人男性は比較的安全である、という考えのもと、父親が福島に残り、母子が避難をするというケースが顕著であるが、この際の被災者の意識と科学的データのギャップをどう考えていくべきかという問いであった。ヘイナマー教授は、科学的な実証とその価値づけの問題ではないかという応答をされた。実証の価値づけ、つまり恐怖などの感情や信頼といったものなくして、科学的な知の形成は出来ないという点が指摘された。基調講演の初めに述べられた「経験の哲学」としての現象学が向き合うべき、個々の感情や経験の重要性に回帰するような質疑であったように思う。

本講演会は、プログラム生自主企画の一つである「女性・ジェンダーの視点から『現場』を考える」企画と連動する形で実施されたが、この講演会が締めくくりであるように、アカデミックな活動が目立ったことは個人的に大きな成果だと思う。現場という問題提起は常に抱えつつ、しかしアカデミアの中でさえしばしば看過されがちなフェミニズムという領域をタイトルに掲げたイベントが多く企画、実施されたことは、今後の活動、研究へと繋がっていくだろう。

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報告日:2015年3月29日