「第5回メディアと表現について考えるシンポジウム:わたしが声を上げるとき」報告 田中 瑛

「第5回メディアと表現について考えるシンポジウム:わたしが声を上げるとき」報告 田中 瑛

日時
2019年5月18日(土)14:00 - 16:00
場所
東京大学情報学環・福武ホール 地下二階ラーニングシアター
主催
  • メディア表現とダイバーシティを抜本的に検討する会(MeDi)
  • 東京大学大学院博士課程リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクトS
協力
東京大学大学院情報学環 林香里研究室

五月祭開催期間中の2019年5月18日(土)、東京大学大学院多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)とメディア表現とダイバーシティを抜本的に検討する会(MeDi)の共催で、第5回メディアと表現について考えるシンポジウム「わたしが声を上げるとき」が開催された。2017年5月に始まったMeDiでは、メディア表現に携わる実務家、研究者、市民が、4回に渡り様々な角度からメディアの表象や構造の問題を議論してきた。その間に、セクハラや性的暴行の被害者が体験を告白・共有する「#MeToo運動」の展開、財務事務次官のセクハラ疑惑に対する女性記者の連帯、そして『週刊SPA!』に掲載された「ヤレる女子大生ランキング」の炎上など、特にジェンダーをめぐって声が上がるという重要な出来事があった。番組制作における「声なき声」の社会的包摂を研究してきた報告者も、本企画の論点の一つである声を上げることを阻む構造は何かという問題に興味を抱き、議論を拝聴した。

NHK記者の山本恵子氏が司会を務め、「#WeToo Japan」のサポーターを務めるエッセイストの小島慶子氏、芸能関係のライターの武田砂鉄氏といった伝統的メディアに関わる立場の方々に加え、『SPA!』に女子大学生として声を上げ、編集部と対話をしたことで話題となったVoice Up Japan代表の山本和奈氏、「誰もが生きやすい社会」を目標に匿名で声を上げ、寄り添う場を作る株式会社キュカの代表取締役を務めるウ・ナリ氏、ジェンダー論の観点からメディア表象の研究をする大妻女子大学文学部の田中東子教授が登壇し、「声を上げること」について議論を深めた。本シンポジウムでは、多様な立場や視座から論点が提示され、実りのある知見が得られた。順番は一部前後するが、報告者なりに重要な点を噛み砕いて報告したい。

1. 声を対話に結びつけること

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まずは、声を対話に結びつけることの重要性が指摘された。山本和奈氏は、5万人以上の署名を集めた自らの経験を紹介しながら、日本社会の「出る杭を打つ」かのような社会構造を問題提起した。すなわち、当事者が声を上げても、根本的な対話に開かれず、問題が雲散霧消してしまうという光景をよく目にする。例えば、杉田水脈議員の寄稿におけるLGBTに対する差別的表現の問題は、根本的な問題の解決に向けた積極的なアクションが展開されないまま、『新潮45』が休刊したことで沈静化された。それに対して、『SPA!』について対話を行ったことの意義は、問題が生じた構造的原因を明らかにできたことであると言う。対話では、編集段階で編集者が違和感を覚えていたにも関わらず、誰も編集長にそれを表明できなかったという、上意下達的な意思決定構造が可視化された。このように、声を上げるのを契機として対話を行い、常態化していた問題を改善していくというプロセスが重要であると言える。

他方で、メディアの生み出す文脈において、明白な理不尽は「理不尽」として受け止められにくいことがある。例えば、山本和奈氏は、「酒を飲んでいた女が悪い」といった被害者バッシングは、「ヤれる」という言葉で女性を物のように扱い、それをメディアが客観的な理解として広めることで、被害者を責める構造を構成していることに起因するのではないかと指摘する。メディア表象の生産過程にライターとして携わる武田氏も、理不尽に対する感覚麻痺がメディアを通じて再生産されていると論じた。例えば、AKB48グループには「恋愛禁止」というルールがある。これは明白な人権侵害であるが、メディアがAKB48グループの脱退(卒業)に「恋愛解禁」と見出しを付けて報道するなど、「アイドルの恋愛は悪いことだ」というイメージを無批判に発信することで、それが常識として受容されていく。表象の再生産を通じて差別が差別として認識されなくなるという感覚麻痺は根が深いものであるように思われる。

こうした状況に抗うために声を上げることの重要性が共有される一方で、当事者ゆえに声を上げることが難しいのではないかという意見も示された。例えば、田中教授は『SPA!』で名指しされた大妻女子大学の学生に聞き取りを行い、「象徴的な暴力がいかに人をしっかり傷つけるのかを感じた」と述べる。すなわち、当事者自身が声を上げることにより傷つけられる可能性がある。個人主義的イデオロギーや相互扶助への嫌悪感は国際的に見られる傾向であるが、日本社会ではそれだけに留まらず、「声を出させないシステムやコミュニケーション環境」が構成されているのではないかと田中教授は考察する。登壇者の多くが自分自身の経験と結びつけて話したように、私たちの社会には既存の社会秩序に対する無批判性が根付いているように思われる。

そして、声を上げることで状況が改善するという成功体験を積み重ねることが大事であるという観点が提示された。すなわち、可傷性の高い人々が声を上げやすくなるような環境作りが重要であると言える。「Yahoo! 知恵袋」のエンジニアとして勤務した経歴を持つウ氏は、そうした実践として自身が運営しているウェブプラットフォーム「キュカ」を紹介した。彼女は、声を上げられない理由は、具体的な利害関係・上下関係から漠然とした無力感や恐怖感まで多様であると言う。そして、Yahoo! 時代の同僚がセンシティヴな問題を上司に打ち明けた際に、「問題を大きくしない」という力学が働いて解決に繋がらなかったという経験に基づき、「寄り添う人がいる」「匿名」「バッシングされない」という条件を満たす、安心して声を上げられるコミュニティを考案した。さらに、「キュカ」が目指すのは、「声が実際の問題解決に結び付く」という実績を積み重ねることで、声を上げることの有効感覚を高めていくことであると言う。具体的には、声をハラスメント加害者になりやすい管理者教育の充実に結びつけていくなどの実践を試みている。こうした議論からは、声を社会へと媒介する多様な回路を共在させることが重要であることがよく理解できる。

2. 弱さの共有による対立からの脱却

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こうした問題を「男性/女性」というジェンダー的な対立枠組みに押し込めるのではなく、より包括的な問題として受け止めるべきだという議論もあった。例えば、女性差別の問題に対し、痴漢冤罪など男性も被害者になり得るという意見もある。「弱い男性」を叩くミサンドリー的な言説も確かに存在する。それでも、武田氏は「俺だって我慢しているのに」という安易な相対化で終わらせてはならないと警鐘を鳴らした。例えば、東京医科大学の医学部入試において発覚した得点差別では、女子だけでなく男子浪人生も差別の対象となったが、この問題を男性/女性という対立に還元するのではなく、「差別されること」の問題として等しく受け止める必要があると主張した。小島氏も、互いに我慢して声を上げないことは、「生きづらさ」をもたらす社会構造の歪みをそのまま温存してしまうと強調する。すなわち、分断された関係を架橋することで対話に結びつけ、声を上げることを肯定することが、もう一つの重要な争点だと言える。

対立を対話に変える契機とは何かを考える上で特に興味深かったのは、声を上げる人に対して匿名で「出る杭を打つ」のは、実は声を上げられない人々なのではないかという小島氏の提案である。すなわち、自分自身の弱さや辛さを打ち明けても他者から承認されないがために、「俺だって我慢しているのに」と他者の声を拒絶してしまうのではないかという考察である。彼女は、精神保健福祉士の斉藤章佳氏の「男尊女卑依存社会」という言葉を援用しながら、男性性/女性性という既存の自己概念装置──例えば、会社に身を捧げる、仕事による自己実現を放棄して夫に身を捧げるといった性別役割分業に基づく「努力」「頑張り」あるいは「我慢」の尺度──でしか自分自身を定義できない状況が、弱さを打ち明けることを困難にしていると言う。対立を対話に変えていく上で重要なのは、男性性/女性性という規範像が表裏一体の関係にあり、相互に役割を規定して縛り付け、男性/女性の双方に対して「生きづらさ」をもたらしているという点である。

小島氏が紹介した斉藤氏の提案によれば、そこに相互に等価な関係を結び直すためには、自分が既存の構造に依存していることを認め、対立する異性の主張を信じ、最終的に「自分はこうでなければならない」という恐れを手放すという、依存からの脱却のプロセスが重要であると言う。このことは、対立として論じられやすいあらゆる問題に通じる問題だと感じた。多数者と少数者とを問わず、自己の一部を成す「しんどい、弱い自分」が他者から承認されないのではないかという強迫観念を抱えて生きなければならないのは辛いことであり、対立ではなくそれを認め合うことで初めて問題に対する働きかけとしての対話が可能になるのではないだろうか。これを山本恵子氏は「一緒に変えていこうという原動力」が求められると表現した。

3. 主体的な報道のあり方について

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それでは、社会的現実を構築するメディア報道のあり方をどのように再考すれば良いのか。メディアの表象構造はルーティンになりやすく、それが対話ではなく言外の空気を無批判に肯定する方向に作用することがある。例えば、後半には読売テレビ『かんさい情報ネットten.』でのLGBTQに対する不適切な取材が話題に挙がった。この問題はウェブ上で炎上騒動となったが、他方ではコメンテーターを務める作家の若一光司氏が番組制作者を叱責した際にスタジオが凍り付き、「スタジオで怒るな」というバッシングもあったと言う。これについて、小島氏は「スタジオで怒るのはいいんだよというのをメディアが発信すべき」と述べ、武田氏はアナウンサーや出演者が代わりに謝罪しているが、誰に責任の所在があるのかが不透明であると批判した。すなわち、責任主体が明白でないがために、メディア空間での意見の表出が封じられているという問題が浮き彫りになった。

この問題は「中立公正」ではあり得ない。田中教授は、多様で複雑な価値を持つ社会においては、「中立公正・不偏不党」という消極的態度ではなく積極的に意見を選択する態度が求められており、無関心層も含めた意見形成を行うためには、他者の問題について学ぶ機会を提供することが必要であると論じた。この点で、メディアの責任は情報を発信するだけでなく当事者意識を持って問題を変革する点にこそあるという山本和奈氏の指摘は重要である。ところが、武田氏が指摘するように、報道にはその時点で番組制作者の作為が加わっているにも関わらず、中立公正を求めるオーディエンスからは「偏向報道だ」と批判されやすい。この点について、小島氏はこの表象構造に声を媒介する回路が必要であり、「オーディエンスの声がマスコミを変えてくれる」と述べていた。すなわち、抑圧された声を「マスゴミ死ね」といった漠然としたメディア不信として表出させるのではなく、その報道のあり方に対する具体的な評価を提示することで変えることができるような仕組みを整えるべきであると言う。この議論を聞きながら、報告者はメディアの主体性は市民との関わりから構成されるものであり、市民の主体性も多様なメディアを通じて多様に構成されるということを考えた。もちろん、この未完のプロジェクトは一筋縄では到達しえない。

最後に議論を踏まえた感想を述べて締め括りとしたい。以上の議論が行き着く課題は、声を上げることの成功体験を通じた自己肯定感の回復をいかに構造化するかである。山本和奈氏は自己肯定を肯定する報道のあり方が重要だと主張したが、自己肯定とは他者を承認し、他者から承認されることでかろうじて成り立つものである。それは互いの弱さを素直に認め合うところから始まる。すなわち、規格化された同質性/排除、能率性、分断ではなく、多様性を包摂しながら個人と社会を媒介する方法を模索し、それをメディアがいかに体現するのかが大切であるように思われる。報告者自身も本シンポジウムの対話を踏まえて、何が声を阻むのか、メディアを硬直させているのかという研究者としての観点を携えつつも、「自分らしさ」や主体性をどのように育むのかという個人的なことについても絶えず真剣に考えていきたい。

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報告日:2019年5月29日