「南相木哲学対話研修」報告 佐藤 寛紀

「南相木哲学対話研修」報告 佐藤 寛紀

日時:
2019年11月23日(土)~24日(日)
場所:
長野県南佐久郡南相木村
主催:
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクトH「生命のポイエーシスと多文化共生のプラクシス」

本研修が行われた長野県南相木村は、長野県の東信地域に位置する、人口1066人(平成28年度)、高齢化率40.6%(平成27年度)1の高齢化が進む小規模な村である。本研修で参加させていただいた哲学対話は、このような同村の抱える状況を改善する糸口として、行政主体で行われた。

本研修では、まず、2019年11月23日に村役場にて同村長を表敬訪問した。その後、南相木村公民館にて、同村民の方々(約30~40人)による哲学対話が、本学の梶谷真司教授の指導の下に行われ、我々はこれに参加させていただいた。その後、哲学対話参加者との夕食会が開かれ、村民の方々と交流を深めた。

翌2019年11月24日には、同村で保存されている古民家(一般家庭および旧村役場)および野沢菜漬けの様子を、同村教育長に案内していただき、見学した。

考察

我が国では、町および村に区分される地域の過疎化・高齢化が著しい。また、これに伴い、多様なくらしの伝統・文化は消失の危機にある。このような現状の解決には、各々の地域が主体となり、その状況と合致した策の創出と、その実施が重要である。そして、それを行う上では、地域内で活発かつ生産的な思考と対話が行われることが求められる。そのために必要なものとして、対話・思考の手軽な基盤と、それを実行する場が挙げられる。これに関し、哲学対話は前者となりえ、本研修で見学した信州の「お茶を貰う文化」は後者となりうると考えられる。

活発かつ生産的なコミュニケーションを行うことは非常に難しい。よって、それを行うには、対話・思考の手軽な基盤が導入されることが望ましく、哲学対話はこの基盤となりうる。本研修で実施された哲学対話においては、参加された方々の多くが、多少の緊張はありながらも、気軽に対話と思考を行っていたと思われる。また、交わされる発言は決して乱雑なものではなく、非常に論理だったものであった。筆者はこれまでに2度の哲学対話研修に参加し、1度目は東京都雪谷高校において高校1年生を対象とした哲学対話、2度目は宮崎県五ヶ瀬町において同町民および五ヶ瀬中等教育学校生徒を対象とした哲学対話に参加させていただいたが、いずれにおいても同様の事象が観察された。したがって、哲学対話は手軽でありながらも効果的な対話・思考を行うことを可能とする基盤として機能し、地域における対話・思考を活発かつ生産的なものとする可能性が高い。

一方で、対話・思考を行うには、それを行う場が必要である。今回催されたような哲学対話は、あくまで用意された非日常の場であり、日常の場において対話・思考が行われることが求められる。そして、そのような場を、信州の「お茶を貰う文化」が提供しうると考えられる。信州では、知人の家に行き、お茶と漬物をいただきながら長話をするという文化があり、これを「お茶も貰う」などという。この「お茶を貰う文化」は今回の研修でも見られ、古民家を見学させていただいた際に、家主の方のご厚意で、茶と名産の野沢菜漬けをいただきながら、地域史などについて談話した。このような腰を落ち着けて長話をする文化が信州には存在し、これを対話・思考を行う場として活用できると考えられる。

近年、地方の抱える課題解決のために、哲学対話が導入される事例が多くなっていると聞く。しかし、ただ単純に哲学対話を行うのでは哲学対話は一過性のものになってしまい、効果もあまり期待できないだろう。よって、重要なのは、哲学対話を如何に地域に根ざしたものにできるかである。この方法の1つとして考えられるのは、地域の文化や伝統に組み込む形で哲学対話を行うということである。特に、哲学対話が日常的に行われる場を、文化・伝統に求めることにより、哲学対話を地域に根ざしたものにできると考えられる。例として、南相木村の場合には、「お茶を貰う文化」を日常における哲学対話の場として活用することによって、哲学対話の定着と、地域における対話・思考の活性化を期待できるだろう。これまでに参加した哲学対話研修では、哲学対話が参加者にどのような効力を持っているのか、という点に注視してきた。そして、本研修では、哲学対話がその地域にいかに定着するのかについて具体的に考察することができた。

参考文献

南相木村. 2019. http://www.minamiaiki.jp/.