「東京大学IHS・成均館大学共同フォーラム」 報告 柴田 温比古

「東京大学IHS・成均館大学共同フォーラム」 報告 柴田 温比古

日時
2019年7月11日~7月14日
場所
韓国ソウル・成均館大学
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクトH「生命のポイエーシスと多文化共生のプラクシス」
共催
成均館大学

本研修は、日中韓の各大学の大学院生が参加し、各自の関心に基づき研究発表を行うフォーラムである。内容は広い意味で東アジアに関連することが求められるが、ディシプリンやアプローチは自由であり、例年、文学から社会学、メディア研究に至るまで幅広い内容の研究発表がなされ、学際的な交流が行われてきた。通算6回目となる今回は、残念ながらこれまで参加してきた中国の大学(清華大学・東北師範大学)は不参加となり、東京大学と成均館大学の2大学のみの参加となったが、東京大学・成均館大学双方の先生方による基調報告(Keynote Talk)が新たに行われたほか、全体として活発な議論が展開された。

1日目には、最初に東大の林先生および成均館大学の朴先生の基調報告が行われた。林先生の報告は、Towards a Renewed Understanding of Japanese Early Modern History from the East Asian Perspective: Civic Rule in Edo Japan and the East Asian World Orderと題され、江戸期〜明治期の日本近世・近代史を、主権国家体制からなる西欧近代的な国際秩序を自明の前提とする通常の一国史としての日本史から解き放ち、華夷秩序と冊封からなる東アジアの国際秩序の伝統のなかに位置付けることで、明治期を近代化の始点とする従来的な史観に代えて、江戸期を文治、明治期を武治とする新たな歴史像を提示する大胆な報告であった。また朴先生の報告はTranslation and Imagined World Litterature in East Asiaと題され、イプセンの『人形の家』、アルフォンス・ドーデの『最後の授業』、タゴールの『東方の灯燭』を扱い、文学が翻訳過程である種の誤訳や捏造を含み、また政治的な目的のために援用されていく過程を検討するものであった。

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(写真1)

2日目には、エリス先生と成均館大学のチョン先生の基調報告が行われた。エリス先生の報告は、日本文学を一国文学としてではなく東アジアの広がりの中で捉えることの重要性を指摘し、日本近代詩における南方に対するオリエンタリスム的な眼差しや、北方(満州)に対する偏向した眼差しを、金子光晴や雑誌『亞』、『耕人』などの作品読解を通じて析出するものであった。またチョン先生の報告は、Laboring Intellectuals, Writing Workers: A New Critical Perspective on 1980s-1990s South Korean Cultural Historyと題し、韓国の民主化運動や労働運動における、労働者と知識人の関係を扱うものであった。いずれも私自身は十分に知らないできた事柄であり、大変勉強になった。

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(写真2)

また、学生たちの発表では、中世文学から日本の文化政策、植民地期の思想史や文学、韓国の軍事政権による虐殺など、多様な主題に関する研究発表が行われた。それぞれの報告は非常に多様な主題に渡っており、一言で整理するのは困難である。しかしながら、先生方の基調報告も含めて、今回改めて感じさせられたことの一つは、対象を日本にするにせよ韓国にするにせよ、そこでの事象を掘り下げれば必ず、日本による韓国をはじめとした各国の侵略・植民地化の歴史や、冷戦における南北分断などの問題へとつながっていくということである。そこでは決して一国史的な限定性は機能せず、「東アジア」という広がり──そこではしばしば重苦しい歴史が渦巻いている──の中で捉えなければならない。本フォーラムが冠する通り、「東アジア」という枠組みで物事を捉えていくことの重要性を改めて感じさせられた。

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(写真3)

また、発表の合間には、参加者から『82年生まれ、キム・ジヨン』についての解説も行われた。知られるように、『キム・ジヨン』は一人の女性の人生をたどるという構造を通して韓国社会における女性差別をリアルに描き出す小説作品であり、韓国内外でベストセラーとなるとともに論争を引き起こしている。韓国では、女性差別をリアルに描き出したことや、文学内部の男性中心主義を突き崩す同作の出現自体に対して高い評価が見られる一方で、文学作品としての価値という観点からすればその文体が伝統的な韓国文学の評価基準に沿わないものであったため、批評論壇においては低評価に晒されるといった事態も生じているそうである。この構図はある意味では既視感のあるものである。というのも、日本でも例えば芥川賞の選評として、トランスナショナルなアイデンティティの苦悩を扱った小説に対して「これは、当事者たちには深刻なアイデンティティと向き合うテーマかもしれないが、日本人の読み手にとっては対岸の火事であって、同調しにくい。」などといった選評が出されてしまう状況が存在するからである。確かに、文学作品の持つ政治性や倫理性と、文学それ自体としての価値が時に乖離することはありえ、優れた政治性や倫理的な問いを扱っていながらも、作品として稚拙なものが存在するということはあり得る。他方で、(作品の政治性・倫理性と独立した)文学作品としての稚拙さという評価は、評価を下す側が抱く評価基準の独善性を背景としていたり、内面化された(女性や移民等のマイノリティに対する)差別を間接的に正当化するための方便として用いられていることもあり得る。それゆえおそらく答えを一般化することはできず、読み手はその都度その作品と向き合うしかないのだろう。改めて、芸術作品の作品としての評価と政治性・倫理性との複雑な関係について考えさせられた。

最終日には、短時間ながら、ソウル市内の観光が行われた。まず、日本大使館前の慰安婦像を訪れた。私自身、映画『主戦場』にて慰安婦像の設置と抗議運動の様子に触れ、慰安婦像前に抗議運動に携わる学生たちがテントを張り、交代で座り込みを行なっていることを知っていたが、実際に訪れることでリアリティをより深く感じることができた。若い学生たちが長期間に渡って継続的に運動に関わっている、ということも含めて、日本政府や日本社会が、先の大戦に対して極めて不十分な戦後補償や戦争責任の引き受けしか行って来なかったことを思わされた。とりわけ研修当初から本報告執筆中の現在に至るまで、徴用工問題に関する韓国最高裁判決を発端として、日本政府が報復的な輸出規制をとったことから、急速に日韓関係が悪化している。厳密には、徴用工問題と慰安婦問題では支援団体の性質をはじめ、問題の構造が異なるとも言われるが、大局的には日本側の植民地支配に対する謝罪と反省の不十分という点において、同一の問題系に属しているように思われる。改めて、今後の日韓関係、もとより東アジアの未来のためには、先の戦争とその後の戦後史の展開を日本社会全体が反省し、その責任を再考しつつ対話を重ねていくという地道な作業が必要不可欠であると思わされた。

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(写真4)

続いて、労働運動に携わり、焼身自殺を遂げた全泰壱(チョン・テイル)の記念館を訪問した。全泰壱は裁断士として働き始めた縫製工場で、搾取され過酷な低賃金労働を強いられている女性労働者たちの実態を目の当たりにし、労働運動を始め、挫折を経て、抗議の焼身自殺を遂げた人物である。彼の死は多くの人々に衝撃を与え、労働者の待遇改善を訴える労働運動や民主化運動の盛り上がりへと結実していく。焼身自殺とは、あらゆる死の中でも最も悼ましい死の一つであるように思う。本記念館の展示を見学することで、自らの身体に火を放つまでに駆り立てられた全泰壱の絶望の深さと意志の強度とを、感じさせられた。同時に、そうした死を産み落とすほどの労働者の搾取を伴った韓国の近代化や軍事政権の矛盾や重みについて思わされた。

最後に、ソウル市博物館を訪問した。短時間の訪問だったが、ソウルの近現代史を大まかに知ることができた。とりわけ印象的だったのは、戦後の高度成長期にソウルに急速に人口が流入し、10年ほどで人口が数百万人増加したという事実である。そのため当時のソウルは住宅不足や住環境の悪化に悩まされたようである。一般にアジア諸国は西欧に比べて急速な近代化―「圧縮近代」―などとも呼ばれる経験をしてきたが、数百万人の人口増加というその圧倒的な数字は、強い印象を残した。圧縮近代は同時に、自然環境や人間生活への過剰な負担をも伴う。先述の全泰壱の焼身自殺は、まさにそうした近代化の矛盾の一つであろう。他方で、雑駁な印象に過ぎず誤っているかもしれないが、朝鮮戦争や軍事政権の問題についてはあまり深く触れられていなかったようにも思われた。総じて、隣国であるにもかかわらず、韓国の現代史について極めて限られた知識しか有していないことを痛感させられた。機会があればより深く学んでみたいと思わされた。

最後になったが、本フォーラムには3年間通して参加してきた。私自身の研究では、国家や社会のメンバーシップの境界画定を関心とし、主に国籍や国境管理の理論的な研究や、フランスを対象とした歴史社会学的な研究を進めてきたが、これまでは私自身の生活する日本や東アジアについて研究内在的に関わってはこなかった。本フォーラムでは、少し研究とは離れたところで、自分の寄って立つ「東アジア」という地域の具体性と歴史性を意識しながら考えるという貴重な機会を与えていただいた。そこでどれほどのことを考えられたかは心許ないが、今後も「東アジア」という視点を意識して思考を続けていきたい。また本フォーラムを通じて、成均館大学や清華大学の学生とも交流を進め、親しくなることができた。書籍や文献を通じてだけでなく、こうした人的な交流も、とても貴重なものだと思う。そうした貴重な機会を与えていただいた、東大側の林先生やエリス先生を始め、成均館大学のファン先生や他の先生方・スタッフの方々には深く感謝したい。ありがとうございました。

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