「京都・総合地球環境学研究所の訪問研修」報告 中川 亮

「京都・総合地球環境学研究所の訪問研修」報告 中川 亮

日時
2019年3月18日(月)〜20日(水)
場所
総合地球環境学研究所(京都)
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクトH

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2019年3月18日から20日までの3日間に渡って、京都・総合地球環境学研究所(以下、地球研)の訪問研修が行われた。地球研は、人間文化研究機構に属する国立研究所の一つで、自然と人間とのかかわりを学際的に研究し、環境問題の解決を模索することを目的としている。

IHSプログラム生は、まず京都市北区の自然豊かな地にある地球研にて、第168回地球研セミナー「超学際研究の可能性と課題──関心の異なる主体はいかに協同できるか/できないか」に参加し、話題提供と討論を行った。このセミナーでは地球研側の参加者による発表も2件あり、それぞれ、現在進行中の超学際的プロジェクトの概要説明と滋賀県高島市で行ったプロジェクトの総括がテーマであった。討論では、専門や関心を異にする主体同士のコミュニケーションと合意形成のあり方、法律の専門家による学際的プロジェクトへの貢献の可能性、現代を生きる私たちと未来の地球との関係、などが議題となり、当初予定されていた時間を超えて盛んな議論が交わされた。ここで検討された問題点のいくつかが実際に地域の抱える課題そのものであるということが、翌日の朽木巡検で確認された。

朽木巡検では滋賀県高島市朽木(旧朽木村)を訪問し、六斎念仏という伝統芸能の継承、朽木内にある針畑地区の郷土史、そして山林の管理・保全について朽木の方々からお話を伺った。今回、こうした巡検が実現したのは地球研がプロジェクトを立ち上げて、数年来この地域の活性化に貢献してきた経緯があることによる。巡検でとても印象的だったのは、針畑地区の歴史を解説くださった西川氏が、地区の未来が明るくなかろうと最後まで「あがきます」と仰っていたことであった。また、「森林公園くつきの森」の海老澤氏による森林と野山に対する眼差しの暖かさ、そして犀利な洞察も記憶に残る。

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セミナーの机上では解決できそうに見えた課題も、朽木という文脈に置かれてみると、とても複雑で一筋縄ではいかないものに思われてくる。そこには過疎があり、時代遅れになりつつある里山資源の管理問題があり、獣害があり、また地区同士の緊張感や、朽木外からの転入者とのつきあいのような繊細な問題がある。外部からやってくる研究者はそうした複雑系にどのような関与ができるだろうか。研究者が地域との適切な距離感を保つうえで忘れてはならないのは、最終的には住民たちが自身の課題を自身の視点から定位する必要があるということだろう。地域の問題とはまさにその地域の人々が自身の生活において直面している課題であって、住民たちの視点を離れてはその課題の適切な理解がありえない。私たちが自らの生活において格闘する問題というのは、とても規模の小さいものであることがほとんどだろう。それはたとえば住んでいる市のほんの小さな地区や一本の通りに限定されたものであったり、ときにはたった一つのマンションの内部で起きている些細な事件であったりする。ところが、ひとたび他者の問題を考えようとすると、私たちは他者について自分のことほど細かく知らないので、事態を見るレンズの倍率が低くなってしまうことがあろう。たとえば朽木の抱える課題にしても、第三者としては、滋賀県や高島市のようなかなり大きい地理的枠組みに基づいて考えたくなってしまうのだが、実際のところ、そこに住む人々は在所(つまり針畑など、朽木内の各地区)を単位として問題を定位することが多い。それを端的に表しているのは、郷土史を語ってくださった西川氏の口から出た「結界」という言葉である。在所の空間的な区切りに相当するこの「結界」は、在所同士の差を心理的にも表象している。そのため、地域の問題を考える際に朽木の人々にとってもっとも身近な単位となるのはこの在所なのである。このことは、第三者が地域の問題に関わるときには、個別の文脈や事例を丁寧に検討する繊細さと慎重さが求められるのだと教えてくれる。

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私たちが身の回りの手の届く範囲でしか十分に思考し行動できないらしい、という見立ては環境問題に対する姿勢にも当てはまるだろう。地球研の展開するさまざまな研究プロジェクトに共通する理念のひとつに「未来可能性(futurability)」がある。これは、未来の地球環境がどうあるべきかを考えるためのキーワードとされている。1「未来可能性」を思案するときにも、やはり私たちは私たち自身にとって重要なものや人が存在し続けている将来像を基準として、「あるべき未来の地球」について考えている。「将来世代のことを考える」という命題の持つ利他的な相貌の裏には、「私」が思考する限りにおいて抜け出しがたい利己的視点があるのだ。環境問題や地域の問題に取り組むとき、その利己的視点の介入を認識することは無駄にはなるまい。どんな問題にも異なる視点と関心を持つ主体が複層的に関与しており、その問題を解決しようとするなら、それぞれの利己的視点の相違をすり合わせなくてはならないからである。このプロセスには研究者が果たすべき役割が大いにあるのではないだろうか。環境や未来や地域についての思考がいかに個人的文脈に依拠しているかを意識しつつ、その思考を不断に言語化すること、そして過度の一般化に抗い、それぞれのコミュニティに合った解決を仲介していくことが研究者に求められているように思う。

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地球研のウェブサイトは「未来可能性」を次のように説明している。
「未来可能性」(futurability)とは、(中略)人と地球の未来のあるべき姿を考える「総合地球環境学」を構築するために、私たちが込めた思いを表したことばです。地球研では設立以来、「持続可能性」ではなく、「未来可能性」ということばを使っています。

総合地球環境学研究所「お問い合わせ|総合地球環境学研究所 よくある質問 Q. 未来可能性とは何ですか?」2019年3月27日閲覧.

報告日:2019年3月27日