華雪氏による一文字書ワークショップ@「あなたの公–差–転」 報告 井坪 葉奈子

華雪氏による一文字書ワークショップ@「あなたの公–差–転」 報告 井坪 葉奈子

日時
2019年3月2日(土)
場所
「あなたの公–差–転」(東京都杉並区善福寺)
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクトH「生命のポイエーシスと多文化共生のプラクシス」 協力:「あなたの公–差–転」

本研修は、書家の華雪氏を迎え、東京善福寺近くに位置するアートスペース「あなたの公–差–転」で行われた一文字書ワークショップを中心に、華雪氏の著書を読みながらの事前勉強会、華雪氏と共にワークショップを振り返る事後研修の三部で構成されていた。今回は、活動の核となる一文字書ワークショップを主に、事前や事後研修で感じたことも踏まえつつ、報告する。

3月2日のワークショップでは、IHSの学生のほかに、自閉症の男性や、あなたの公–差–転を運営している女性、ご近所にお住まいの方々など様々な背景を持った人々が集まった。ワークショップでは、まず華雪氏から、文字の成り立ちの話などを伺った後、一文字書で扱う文字が「木」であるということで、それぞれにとって思い入れのある木について個人ワークで思い出し、共有した。当たり前のことだが、一言に木といっても、各参加者によって思い描く木は全く異なっていた。私自身は、実家に植わっている、私と同い年の朴の木を思い出したが、自分の故郷でよく登って遊んでいた木について話す参加者もいれば、近所の公園の木の魅力について話す参加者もいた。各エピソードを共有していくにつれて、「木」というもの自体や、「木」という文字が、立体感をもって目の前に浮き上がっていくような感覚を得ることが出来た。

続いて、用意されていた様々な種類の筆と紙の説明があった。硬い筆、やわらかい筆、コシのある・なしなど、素材によって筆の書き心地が全く異なることに驚いた。自分のイメージした木に合わせて筆と紙を選び、字体を選び、書く。その間は自分と向き合う時間であり、各々、無我夢中で自分の世界に没入していたように思う。

私は、私と同い年の朴の木を自分自身と捉えて、「木」という一文字で表現するにあたり、自分自身とはどのような人間なのかを改めて考える機会を得ることが出来た。自分の内面を深く探りながら、決まった一文字で何かを表現するということに対して、難しさは感じたが、同時に、絵を描くことなどに比べて比較的制約が多い分、その少ない自由の中でどのように表現したらいいのかをよく考えることに繋がり、筆の種類や墨の濃さ、紙への滲み具合、筆圧など細部にも注意を払い、こだわって書くようになる点に面白さを感じた。

その後は、各自が書いた「木」の文字について共有し合った上で、一枚の大きな紙に、地面がどちら側なのかという制約だけを設けたうえで、全員でそれぞれに「木」という文字を書いた。

このワークショップに参加する中で考えたことを、大きくふたつにわけて紹介しようと思う。まずひとつめは、制約や規制というものについてである。華雪氏のワークショップは、とても自由なようでいて、最低限の制約というものが要所に存在していた。例えば、上述した、大きな紙に全員で書く時の上下の向きなどである。それを守ることによって、作品として成立する最低限のラインが達成できるという趣旨のことを、振り返りの会で伺った。自由がある、ということに対して、ポジティブな印象を持つ人は多いが、一定の制限や規則を設けることで、「何を」守っているのか、しっかりと把握したうえで制約をつくったり、従ったりすることが重要だと感じた。振り返りの会の中では、学校における規則の在り方にも話が及んだ。個人的に教育というものは、人を形作っていくプロセスにおいて重要な役割を果たすことから、多文化共生・統合人間学といった人についての話をする時には外せないトピックだと感じているので、興味深く伺った。特に日本の公立学校では、厳しい規則を設けている学校も多いという話であったが、私個人は、これも、先ほどのワークショップにおける制約と一緒で、「何を」守るための規則なのかという一点に集約されると思う。もちろん、学校の場合は子どもが主役であるはずなので、子どもを守るための規則であれば、必要な規則なのではないかと考える。だが、それが学校の名誉を守るため、などにすり替わってしまうと、それは必要な規則なのか、再考する必要があると思う。そこの判断はなかなか難しく、結局は子ども側も教師側も、みんなで話し合いながら規則を作って行くのが理想かもしれないと感じた。また、近年の教師の労働環境の話を聞く限り、子どもだけではなく、子どもを取り巻く大人も健やかな状態でいられるように、教師を守ることも必要なのではないかなと思う。

今回のワークショップに参加する中でもうひとつ強く感じたことに、「理解し合えないことを前提とした多様性の中の共感」というものがある。他者のことを完璧に理解しようだなんて結局傲慢なのではないか、でも、理解しきれないことを前提としたときに浮き彫りになる多様性と、その多様性の中でお互いに共感できるポイントを探しながら共存していくことの重要性は忘れてはならないと思う。他人からは見えない部分も、分かり合えない部分も、全員何かしら抱えていて、それが表出している場合もあれば、していない場合もある。上述したように、今回のワークショップには、1名自閉症を持った男性も参加されていた。自閉症の方にお会いする機会は今まであまりなかったのだが、今回のワークショップにいらしていた男性は、彼自身の中に自分の世界が広がっていて、作品をつくっている際も非常に楽しそうに活動されていた。私は彼の作品の意味について、他の人が自分の作品を説明するような形ではきけなかったが、別にだからと言って、彼とは分かり合えず、他の人とは分かり合える、ということではないのではないかと思っている。「木」という文字を書く。一見、シンプルなワークショップの中でも、全員が今までの経験や人生を背景として作り上げた「木」という概念を持っていて、お互いがそれをいくら言葉にしたところで、文字にして表現したところで、100%伝わるなんていうことはありえないと思う。でも、だからこそ、お互いのことをより知りたいと思うし、話に耳を傾けたいと思うし、作品を解釈しようと懸命にその人や文字に向き合うのかもしれない。その中で、共感を積み重ねていくと、先ほど知り合ったばかりの人とでも、色々な話ができるようになるのかもしれないなと、ワークショップを通して感じた。多文化共生といったときに、相互理解というのはひとつ重要なキーワードではあるが、すべてを理解し受け入れることを目指すことは果たして正しいのだろうか。そもそも、そんなことが果たして出来るのだろうか。今回のワークショップはそれを考えるひとつのきっかけになったと思う。

事前の会で拝読した華雪氏の本の中に、「血の音」というページがある。そこだけを読むと、自分にも人にもとても厳しい、「芸術家」然とした人なのではないかと思えてしまう。しかし、実際にお会いした彼女は、ワークショップのファシリテーターとして全員の個性を引き出し、それぞれの個性がぶつからない様にふんわりと場を調整する、最初のイメージとは全く違う人であった。そういうところも含めて、私は、人は多面的であり、だからこそ、全てを理解しきることを目指すのではなく、少しずつ共感し合いながら、ともに生きていくことを目指せたらと思った。多様性を謳いつつも、自分が理解できないものはなかったことにする、というやり方ではなく、そういう考え方もあるのか、と、受け入れる必要はなくとも、存在を認知するところから、多文化共生は始まるのではないかと思う。

IHS_R_H_190302_KasetsuWorkshop_03.jpg

報告日:2019年3月27日