シンポジウム「アジアにおける21世紀の人文学」 報告
 金 希妍

シンポジウム「アジアにおける21世紀の人文学」 報告 金 希妍

日時
2018年6月1日(金)18:30-19:30
場所
東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーション・ルーム1
主催
科研費基盤研究B「異文化交渉の動態と位相」(研究代表者:大石和欣)
共催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクトH「生命のポイエーシスと多文化共生のプラクシス」、UTCP

要旨

本シンポジウム「アジアにおける21世紀の人文学」は、2018年6月1日、本校の18号館コラボレーション・ルームで開かれた。発表者として本校の教授である阿部公彦先生、石井剛先生、カレン・オブライアン先生(オックスフォード大学)が順に登壇し、最後に日本大学のマイルズ・チルトン先生による全体の総括と、参加者全員でのディスカッションが行われた。

本シンポジウムでは「人文学とは何か?」をテーマに、「人文学」が現在世界的に見てどのような危機に直面しているか、また今後どういった方向に向けてその解決に取り組むべきかについて、様々な観点から議論がなされた。とくに、制度の面では欧米式の近代化をいち早く果たしつつも、言語や文化において独自性・閉鎖性を根強く保っている日本の「人文学」の特異な立ち居地についての論点が多く提示された。人文学の実用性をめぐる問題については、日本でもすでに長らく工学、医学などの理系の科目に比べた人文学の社会的効用の見えにくさや、人文学に対する人々の相対的な関心の低下などが議論されている。その現状を踏まえ、本シンポジウムではあらためてこの問題を根本的な視点から捉え直すことが試みられた。

阿部公彦先生の発表では、「オーラルカルチャー」をテーマに日本の「人文学」の特異なポジションについて報告がなされた。日本では明治の近代化とともに早期から英語教育が取り入れられてきたがその成果は他のアジア諸国と比較して抜きん出て現れているとは言いがたい。とくに「オーラル」の面では、国民の間にはっきりとした苦手意識が広く共有されているとさえ言える。それゆえ、100年以上の歴史がある日本の「英語教育」について、その効率を疑問視する声や、さらには日本の英語教育がその根本から間違っていたと主張する議論さえ聞かれることがある。しかし、阿部先生は日本文学の専門家としての観点から、そういった主張は既存の文化から新しい文化へと変化するための個別的「過程」をまったく考慮せず、「結果」だけみて考えているのではないかと指摘する。「過程」の重要性を考える手がかりとして、阿部先生は作家の大江健三郎における翻訳の問題を取り上げる。五・七・五のリズムを好む日本文学の音韻的特徴と、シラブル単位で構成された英文学の音韻的特徴は、翻訳の際に失われ易いが、大江は、口語と文語を織り交ぜることでリズム的な齟齬を減らそうとした。そのことが、大江に文語体と口語体の差を縮ませた固有の文体を生み出すことにつながった。阿部先生はこうした例を取り上げながら、「過程」それ自体が持つ豊かさ、創造性の意義を強調し、そこに異なる文化の衝突や融和の意味を捉え返す新たな視点があることを指摘した。

石井剛先生の発表では、中国から「人文学」とは何か、を考察する内容であった。そこで考えられたのが、中国の「漢文」との比較である。実際古くから中国では「人文学」について「人と人の間での関係」に関する研究であると伝わってきた。すなわち、人文学とは人間が行う様々な社会的な活動なのである。そういった定義に基づき、石井先生は「歴史」に関する東洋と西洋の異なった視点について考察した。そこで出された、ヘーゲルの事例がまさにそうである。ヘーゲルは、中国における歴史学について、「事実を羅列したつまらないもの」と断じた。しかし、そもそも、「中国文学」を外部の視点(この場合は西洋の視点)からその位置を定義づけするのは、果たして許されることなのであろうか、それこそ、西洋による東洋、すなわち、オリエンタリズムから基づいた傲慢な考えなのではないか、などの批判も考えられる。結局、中国において歴史の事実を記録すること自体が「倫理的な価値観」を伝える、という意義を持っていたのであって、それは、多少時代により異なるかもしれないが、人間が生きているうえで必要である普遍的な価値観を考えることにある。そういった「文化」を無視して「人文学」を考えるのは、人文学が本来持っている特徴から切り離れてしまう結果となるのではないか、果たして「文」が持っている本当に意味とは何なのだろうか、について問いかけ発表を締めた。

続いてオブライアン先生は、欧米における「人文学」の現状が紹介した。一つの事例として、イギリスの大学で第二外国語への関心が減っていることを取り上げ、イギリスの学生たちが多くの時間を要する外国語学習よりも、技術系の科目や法律など、卒業後ただちに役に立つ実用的な科目を受講する傾向が高まって要ることを指摘する。こうした状況はもちろん日本でも共通してみられるところである。オブライアン先生は、研究者が「実用」とは別の観点から人文学を捉えていることが必要不可欠であり、教員は、「学生たちが何のために人文学を勉強・研究しているのか、自ら考える機会を与えてやる必要がある」と強調し、発表を終えた。

以上のことから、人文学の危機をめぐり、人文学の内部・外部の、様々なアプローチから本問題を考えられることが分かった。最後に、それぞれの意見をまとめた上で、今後人文学が歩むべき道について全体でディスカッションを行い、シンポジウムは閉会した。

コメント

本シンポジウムのテーマである「人文学の危機」、そして「人文学」と社会との間にどのような協働や関係が可能かという問いは、私の所属する「多文化共生・統合人間学プログラム」においても、常に考えねばならない問題である。学問に社会的実用と還元を求める傾向は、ますます強くなっているが、それは日本のみならず、世界的な傾向であると言ってよい。実際、隣国である韓国や中国でも文系を避ける傾向はますます高まっており、「経済学」や「社会学」など、就職活動に有利な専門を選ぶ傾向が以前よりはるかに増えている状況である。そこには、グローバル化に伴う経済的、社会的要請のみならず、デジタル化時代の影響も大いに関わって要るだろう。「人文学」が、人間のあらゆる行動を理解するための基礎となる科目であるとするなら、このような傾向は非常に残念なことであると考えられる。おそらく、今後も「人文学」の危機をめぐる議論は続くであろう。人文学に携わる一員として、本シンポジウムで出された様々な視点や課題を、今後も考えていきたいと思う。