大阪「ココルーム」研修報告書 亀有 碧

大阪「ココルーム」研修報告書 亀有 碧

日時
2016年12月27日(火) - 29日(木)
場所
ゲストハウスとカフェと庭 ココルーム(大阪市西成区)
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト3「科学技術と共生社会」
協力
ゲストハウスとカフェと庭 ココルーム

本研修では、大阪府西成区に位置する「釜ヶ崎」や「あいりん地区」と呼ばれる地域を訪ねた。1日目にはこの地域を歩いて見て回り、夜回りにも参加し、2日目に学生ごとに、山王こどもセンターやNPO釜ヶ崎支援機構に運営される特別清掃事業を見学した。本報告書ではまず、案内していただいた水野阿修羅氏のご説明をもとに、この地域の成り立ちと日雇い労働者の現在についてまとめる。次に、ゲストハウス、ココルームを運営する上田假奈代氏のお話しをもとに、芸術創作を通じた支援活動について検討してみたい。

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1. 釜ヶ崎の成り立ちと日雇い労働者の現在

釜ヶ崎の成り立ちとその変遷は、常に、明治以降の国家が進めてきた近代化あるいは民主化と、経済活動の加速化に基づいてきたと言えよう。そもそもこの地区は、明治政府によるスラムクリアランスによって現在の浪速区に存在していた木賃宿街が移転されてできたものである1。政府の方針は、木賃宿街におけるコレラの流行を問題視した近代的都市計画に基づくと同時に、第5回内国勧業博覧会を大阪で開こうとする富国強兵政策に貢献するものでもあった2。戦後には、民主化政策の一環として労働者供給事業が禁止される一方、雇用者と日雇い労働者が直接に交渉する釜ヶ崎の「相対方式」は看過され、そこは貧困層の家屋と青空労働市場が混然一体となった地域であり続けた。背景には、朝鮮特需下の労働力不足があったと考えられている。すなわち、戦後の日本政府と釜ヶ崎の捻じれた、しかし相補的な関係は、この朝鮮特需下の日本における民主化と経済発展の矛盾に端を発しているのだ。1960年代以降、釜ヶ崎の治安の悪さが社会問題化すると、政府は子をもつ家族のみを転居させ、残る単身者を東京オリンピックや大阪万博開催のための労働力として活用する方針をあらわしていく3。当時増加の一途を辿った「ドヤ」と呼ばれる簡易宿泊所は、この町の人口組成が、単身日雇い男性労働者が圧倒的大半を占めるという人工的で不均衡なものであったことを物語っている。1畳から3畳ほどの部屋が詰め込まれたそれは、外から見ただけで異様に窓の間隔が狭いことがわかる。また、覚醒剤中毒者の飛び降りを防止するため、高層階の窓には外から鉄格子がはめられている。

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さて、現在の釜ヶ崎は、日雇い労働者の町から貧困高齢者の町へと様相を変え、簡易宿泊所の多くも福祉機能を兼ね備えたり、生活保護を受けられるようにアパートへと改築されたりしていると水野氏は言う。若い労働者はインターネットの普及によって釜ヶ崎という拠点を必要としなくなり、2020年東京オリンピック開催のための土木作業員用の宿舎、福島県内に用意された原発の除染作業員用の宿舎、あるいはネットルーム、風俗店に用意されたマンションの一室等へと拡散し孤立している。かつて全国から労働者が集まった釜ヶ崎では、労働者が雇用条件の良しあしを暴露し、より良い職場が明らかにされていた。このような社会的機能が失われたことで、現代の孤立した労働者たちには、雇用条件の悪化とそこから逃げることの難化が危惧されている。こうした水野氏のお話しから伺えたのは、この町が、いまや無縁社会よりも良いものとして、一定の肯定的評価を受けつつあることの矛盾である。集められ、流動的かつ代替可能な労働力として扱われることを許容してきた労働者の集合体は、共助の可能性や福祉・支援の与えやすさ/受けやすさにおいて肯定されつつある。

しかし、こうした矛盾的状況の発端にあったのは、集められ、利用される自らの身体を、常にその集合性を用いて、幾度かの暴動に代表される無際限な暴力的対峙にむかう身体へと、あるいは噂を集約し、全国へとまき散らしていく身体へと再編成してきた労働者自身の運動ではなかったか。研修二日目には、肉体労働に従事できない高齢の釜ヶ崎住民に清掃業を委託することで就労を支援するNPO釜ヶ崎支援機構の活動に同行させていただいた。清掃業務へ向かう道中、彼らと共に一人乗り込んだワゴンの中で実感したのが、まさにその、雇用者に対するあれやこれやの噂を語り出す彼らの活発な口と、自分たちが建設に関わり生み出してきた街に対して機敏に動き回る眼の存在だった。すなわち、匿名の身体たちが集められることと、一方でそれらを暴力へ、あるいは知り語る行為へと用いることで、自らを再度、主体化することの二つの運動の相克の中でのみ、日雇い労働者たちの生がありえたということである。そのことへの着目無くして、釜ヶ崎の肯定も否定もあり得ない。

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2. 芸術創作を通じた支援活動について

次に、釜ヶ崎のゲストハウス「ココルーム」を運営している上田假奈代氏の活動を紹介する。上田氏には、路上生活者へ支援物資を手渡ししつつ夜間のパトロールをする夜回り活動に同行させていただいたほか、自身の活動についてのお話をうかがった。詩人である上田氏は2008年から釜ヶ崎を拠点にし、交流の場としてのカフェ兼ゲストハウスを開いたり、「釜ヶ崎芸術大学」という学びや芸術創造の場を設けてたりしている。

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上田氏は、釜ヶ崎でのあるべき支援の在り方を「パッチワーク」という言葉で表現された。それは、多様な被支援者に対応するためには、衣食住だけでないあらゆる種類の支援が必要であり、様々な支援団体による様々な支援のどれかが被支援者を救い上げることができればよいという考えを意味している。そのパッチワークの中で芸術に関わる活動を担っているのが釜ヶ崎芸術大学である。興味深かったのは、上田氏が単に芸術活動を行うのみならず、それに誰でも参加できるような具体的方法を提案してもいることだ。例えば実際に参加させていただいた「こたね」という詩を作る取り組みでは、二人一組になり互いから聞いた話を基に詩を作る。詩作りには時間制限も与えられている。一人での詩作りは気恥ずかしいが、相手の話を基にすれば抵抗感が薄れるだけでなく、経験を客観化して創作することができる。

すでに労働者としての釜ヶ崎の住人の姿を述べたが、実際に釜ヶ崎で出会った彼らは労働の枠外においてもユニークで知的な人々だった。「俺は天皇に頼まれて社会を下から変えている」と宣言してきた男性、「夫に片目を潰された女」について繰り返しぼやく男性、飲み屋で出会ったすい臓がん患者の、入院先の病院で飲酒し、追い出されている最中であることの隠蔽混じりの告白。一概には言えないが、適切に返答してくれる聞き手を欠いてきた言葉は、彼らの中で醸成され、ついには自我の枠内をも飛び越える自己応答を繰り返された結果、奇妙に屈折したものとなって私に吐き出されていた。決着のつけられぬままに、肯定/否定してみたり、告白/隠蔽してみたり、ぼやきのうちに消失させようとしたりといった様々な知的回路を通った言葉は、時に妙な迫真さを伴って、色濃い。かつて釜ヶ崎を日雇い労働者の町へと編成した時代同様に、現在、3年後に東京オリンピックを控え、2025年大阪万博の招致活動が提案されてもいる。釜ヶ崎が問うているのは、以前は「復興」や「好景気」に甘んじた私たちが、再び無批判に用いられる空疎な言葉のもとにそれを繰り返すのかという今日的問いである。釜ヶ崎から生み出される言葉を芸術の言葉として提示していく活動は、そのような問いに照らしても意義深いことであろうと思った。

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原口剛「叫びの都市:寄せ場、釜ケ崎、流動的下層労働者」、京都:洛北出版、2016年、23頁。
加藤政洋「大阪最初のスラムクリアランスとその帰結――「木賃宿的長屋」地区の形成をめぐって」『立命館大学人文科学研究所紀要(83)』2004年2月、1―22頁。
原口剛「叫びの都市:寄せ場、釜ケ崎、流動的下層労働者」、前掲書、第2章「空間の生成」を参照。

報告日:2016年12月29日