2015年度Aセメスター 多文化共生・統合人間学演習II 報告 高 琪琪

日時
2015年度Aセメスター
場所
東京大学駒場キャンパス8号館209教室ほか
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト2「共生のプラクシス──市民社会と地域という思想」
リーディング・マテリアル
  1. 宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』、岩波新書、2010年
  2. エマニュエル・トッド『デモクラシー以後 協調的「保護主義」の提唱』石崎晴己訳、藤原書店、2009年
  3. 松嶋健『プシコ ナウティカ イタリア精神医療の人類学』、世界思想社、2014年
  4. パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』三砂ちづる訳、亜紀書房、2011年
  5. ジャック・アタリ『21世紀の歴史 未来の人類から見た世界』林昌宏訳、作品社、2008年。

2015年9月より、「多文化共生・統合人間学演習II」は約3か月間にわたり実施された。参加者の皆は2週間かけて1冊の浩瀚な著書を読み、講義中に各々問題を提起し、それらについて熱いディスカッションが幾度も繰り広げられた。畑違いの私にとって、普段では触れることのない分野に関連するたくさんの名著に巡り合え、今まで問題視したことのない現実に直面することとなり、大変貴重な体験をさせていただいた。

本演習のキーワードは「格差・人権」となっている。科学技術が日常のあらゆる側面に浸透し、人類の生活がかつてないほど豊かなものになった反面、未だに飢餓や貧困の起こす数えきれない病気で命が奪い去られ、資源や信仰をめぐる地域的紛争が勃発し、驚くほどの不平等がこの地球上に横行している。本演習を通じて得られたいくつかの気づき、取り除いた先入観の数々について、参考文献の内容を振り返りながら述べてみたい。

1.古き新しい格差

格差は古来のものであり、近代になってグローバル化等の要因によって人々の「不平等」への関心が一気に高まった。その背景として、古い貴族制の社会では、階級間の壁はあまりにも自明なので、人々の関心はむしろ同じ身分に属する人間に対して向けられていた傾向がある。ひとたび身分間の壁が打ち破られると、急激に可視化された不平等に対して、人々の意識が鋭敏になっていった。

日本の場合、これまでの特色とも言える、業界ごとに展開されてきた雇用保障や生活保障は、一定範囲内で垂直的な格差を抑制する機能を果たした。ところが、幾度の税制改革や財投改革を経て、雇用保障を支えてきた基盤の解体に拍車がかかり、本来政府が担うべき社会保障が不十分なまま、それを補ってきた職域ごとの雇用保障が解体することで、業界という横の仕切りが崩壊し、格差の広がりが露わとなった。その結果、21世紀以降の日本において、「格差社会」が盛んに論じられるようになった。

2.時間に翻弄される現代人

人類の歴史とは、権利の主体として個人が台頭してきた歴史とも言える。民主主義国家において、これまで人々を縛り付けてきた伝統の拘束、宗教や人間関係から、個人が解放された。しかし、相続が平等化されるにつれ、家の伝統という時間の流れから切り離された個人は、次第に自分をより短い時間間隔のなかで捉えるようになる。自分の死後のことはもちろん、自分の人生についても長い先のことを想像することは難しくなり、個人の意識は「いま・この瞬間」へと集中していく。さらに昨今の日本では、年功序列システムがなかば崩壊しつつあり、人々はもはや遠い将来におけるリターンを期待して現在の労働に耐えることができなくなっている。

一方、進展する市場化の一つの産物である「オーディット文化」──どんな人も機関も、至るところで説明責任を負わされる──が社会の各領域に広まっていった。グローバル化や技術革新の加速により、目まぐるしく変化する経営環境も相まって、即時の利益が株主の一番の懸念事項となり、投資先の企業の長期的視点からの要求に対しては無関心で移り気となり、企業経営者もまた短期的な指標で評価されることになる。やがて社会全体において長期的な視点が見失われがちになり、短期的に成果を求められるようになりつつある。このような「ノー・ロングターム社会」において、人生の時間軸が細切れになってしまい、人々は「人格」を陶冶する余裕も見出せず、絶えず自らを監視・管理することを強いられ、時間の「奴隷」と化してしまう。

3.抑圧のツールと化した「銀行型教育」

いかなる時代にも、人を「モノ」扱いする抑圧者と、抑圧者に搾取、征服される被抑圧者が対極の存在として歴史を刻んできた。支配エリート層は分割支配、大衆操作や文化侵略といった、様々な道具を駆使し征服を目論む。一方の被抑圧者は長い間、非人間的な状況に置かれたため、「人間になる」ことはすなわち「抑圧者になること」と錯覚してしまう。そうしたうちに、被抑圧者は抑圧者に「憧れ」を抱き、抑圧者に「癒着」しはじめ、やがて内側に抑圧者を「宿して」しまう。ゆえに自由を恐れ、自ら自分を解放することはできない。

とりわけ有効なツールとして「銀行型教育」──または「詰め込み教育」──が支配者による抑圧をより強固なものにしてきた。「銀行型教育」の現場では、生徒をただの「容れ物」にしてしまい、教師は「容れ物を一杯にする」ということが仕事になる。教育は「ただのものを容れたり貯めておいたりする活動」になり下がってしまう。

力をもつ者によって行われる抑圧が、ネクロフィリア──死するものへの偏愛──そのものであるように、人間を「モノ」としてしまうその本質からして、「銀行型教育」も同様である。多くの国で今日もなお実践されている「銀行型教育」によって、抑圧の現実を批判的に捉えられない、言わば疑問を持たない「適応」上手な人間が量産される。諸要因により未だに民主主義に移行できていない国が多数存在していることは周知の事実である。おそらく権威主義的独裁国家であればあるほど、「銀行型教育」は民主主義の萌芽を破壊する凶器として猛威を振るうだろう。

4.中等・高等教育の落とし穴

識字化が民主制の伸長に主導的役割を果たした。識字化の過程そのものが、すべての社会集団、すべての個人に、経済的ステータスの差を超えて、何か共通のものを持つ世界が生まれたという感じを抱かせる。それに引き換え、中等・高等教育の発達が、自らの内側に退行し、民衆に対して距離を取り軽蔑する態度を発達させ、社会の諸問題から遠ざかっていく大量の高等文化の消費者──大衆化したエリート層──を作り出し、新たな不平等主義へと帰結する可能性についてE・トッドは警鐘を鳴らした。

現代的な個人主義の否定的な側面──個人の私的領域への後退、人間関係のしがらみに対する恐れ、愛情からの逃避──を裏付けるように、日本でも若者の政治的無関心、職域を超えた連帯の意識の希薄さがしばしば指摘されている。高等教育の普及が少なからず個人主義の行き過ぎ──民主制の土台を揺るがす不安要素の一つ──を助長していると言えよう。

これからの「民主主義」はどんな道のりを辿ることになるのだろうか。そして「私」はどんな形でそこに関わることになるのだろうか。それはきっと、ジャック・アタリの言う「母性本能」に満ちた「トランスヒューマン」──利他主義者で21世紀の歴史や同時代の人々の運命に関心を持ち、次世代によりよい世界を遺そうとする──の出現を盲目的楽観主義者のように待ち侘びることでも、「死は自分自身の意識をもつ最後の自己のクローンが消滅するまで、あるいは他者からのクローンにより自己のクローンが忘却されるまでを意味する」ような地獄絵図の完成を、ただの傍観者として見届けることでもないはず。高等教育の恩恵を受けた一人の人間として、自らの殻に閉じこもらずに、批判的に現実を分析し、考える力、そして拙くてもそれを言葉にして発信できる力を身に着けたいと、今切実に思う。

参考文献

  1. 宇野重規 『〈私〉時代のデモクラシー』 岩波新書、2010年  
  2. パウロ・フレイレ 『被抑圧者の教育学』 三砂ちづる 訳、亜紀書房、2011年 
  3. E・トッド 『デモクラシー以後 協調的「保護主義」の提唱』 石崎晴己 訳、藤原書店、2009年
  4. ジャック・アタリ 『21世紀の歴史 未来の人類から見た世界』 林昌宏 訳、作品社、2008年

報告日:2016年1月20日