2017年度都立高校での教育現場をめぐる研修 報告 守本 志帆

日時
2017年10月16日(月)
場所
東京都立大山高等学校
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト2「共生のプラクシス──市民社会と地域という思想」

2017年10月16日、梶谷真司先生を講師として都立大山高校にて開催された教職員研究会を見学した。今回の企画は東京都教育委員会の指定する学力向上推進校として社団法人「子どもの成長と環境を考える会」の協力を得て実施された教職員研究会の一回であり、学校現場における哲学対話のファシリテーションや授業での活用を主たるテーマとした研究会であった。校長先生、副校長先生をはじめとする大山高校の教員有志と、他校から関心を持って参加された教員と共に輪になって梶谷先生からの説明を受けたのち、「教育や仕事に関すること以外で気になっていること、疑問に思っていること」をテーマに15分程哲学対話を実施した。その後の質疑応答も含めて見学する中で、当初思っていた授業や学校行事における哲学対話の活用にとどまらず、教育改善のために重要な、先生方の職場としての学校現場の改善に哲学対話は役立ちうると感じた。

哲学対話では、複数人で集まって自ら疑問に思うことを自由に問い、各々の考えを語り合い、聞き合い、対話を通して共に考えることで、理解を深めたり、興味を広げたり、人とつながったりすることができるという。研修参加前、哲学対話を使った教育現場における研修を行うと聞き、哲学対話について深く知らないながらも、それがどのように活用され、どのように受け入れられるのかに興味を引かれた。

教育現場において、「ルールだから」「みんながそうしているから」などという理由ではなく、生徒が自分の頭でよく考えて意見を述べたり行動の良し悪しを判断したりできる環境を提供することは非常に重要だと思う。それは、学力の伸張のためだけではなく、学校生活や進路選択において、そして社会に出た後にも、自分の身を守り、仕事や生活を主体的に進めていくためには自ら考えて判断することが大切になってくると考えるからだ。

けれども、私の教職課程や大学受験予備校におけるアルバイトの経験では、自由にじっくり考える時間をみんなで持つことはなかなか難しかった。これは、一つには当時の自分には生徒の本当に自由な発想を受け入れる覚悟も、話し合いを促進するファシリテーション能力もなかったからだ。そして、アクティブラーニングの導入や記述型のテストの大学入試への採用等に対する現場の対応の苦労を聞くにつけ、多くの教師が従来の教授法以外の授業の方法に難しさを感じているのではないかと思う。それゆえ、自分の興味のある問いについてみんなでじっくり考える哲学対話のファシリテーションについて学校教師に研修を行うということは興味深い取り組みだと感じた。

実際に研修に参加してみて、教育現場は想定していたよりずっと、「大人の社会」だと感じた。今回の研修では教員研修に参加しただけで生徒と関わっていないからというのもあるが、参加した教員の方々の忌憚のない意見を聞くことで、教員にとっての「職場」としての学校の姿が垣間見えた。

これまで私が知っていた「学校」の姿は、自分が学生として教わってきた先生、そして昨年度に行った教育実習における指導者としての先生たちによって作られる物だった。今回の研修においては、哲学対話のスタート地点となる問いを出し合う過程で、普段の生活で気になることや将来への不安、子育てや仕事の悩み等を聞き、等身大の人間としての先生方の姿に触れることができたように思う。もちろん、初対面の人たちや職場の上司も集まる「研修」の場における発言であるため、全てがありのままというわけにはいかないだろうが、少なくとも私が今まで学生として見てきた「先生」像とは違った面が見えた。

出した問いの中から、「みんなは何を生きがいにして生きているのだろうか」という問い多数決で選び、この問いを発端とする哲学対話を行なった。「生きがい」は一つか、複数あるか、一つもないか、などと手探りで質問し合う中でお互いの違いを見出して驚いたり、同じ考えの人がいたことに安心したり、緊張感の中で笑みがこぼれたり、振り返ってみれば、なんだか不思議な時間だったと思う。短い時間であったが、対話していく中で輪になった人たち全体で思考を共有し、人間関係も少しずつ動いていくような、けれどもやはりそこにいるのはバラバラの個人で、各々の気持ちや考えが多様に揺れ動いている、そんな感じがした。

当たり前だが、同じ職場で、教師というある程度固定化された理想像を共有しているかに見える職種についていても、各々考え方や関心、表現の仕方は異なり、「やりがい」や「生きがい」を感じる対象は多様だし、そのようなものを行動の原理として求めるかどうかも人によるだろう。教育に関しても、先生たちには一人一人の動機や価値観があり、職場としての学校には教師同士や教師と学生間の人間関係もある。各々が自らの理想像や現実の都合に従って授業や生徒指導を行う中で、学校を「良く」しようとすることは価値観のコンフリクトを生み出し、もし誰もが「良くしたい」と思っていたとしても一筋縄にはいかないのだと思った。

新聞やテレビでは文部科学省の理念や教師の業務の煩雑さ等、制度の面が注目されがちだが、他の職場と同様により個別的で丁寧な問題解決が必要なのではないだろうか。梶谷先生からは、意思決定には哲学対話は向いていないとはいえ、結果が出なくても対話を深めておくことで会議での決定事項に納得して取り組むようになったり、人間関係が良くなったりといったことは望めると説明された。職場としての学校を改善し、教育の質を高めるためには、制度や理念の変更よりも、職場でのコミュニケーションや、一人一人の自由な発想によるやりがいのある授業・生徒指導の実施、そして学校の現状を変えるための先生方による主体的な活動が重要になると思う。これらの促進に、哲学対話は効果を持ちうるだろう。

生徒が社会で生きていくために重要な力を育むと期待される哲学対話は、必然的に、社会で生きている教師たちにとっても、様々なことの意味や価値を問い直し、前に進むための契機となりうるだろう。私自身も、本当に自由に考えることで今の自分の生活の中で確立されている価値観や習慣が脅かされてしまうことを恐れてか、単に面倒なのか、本当によく考えることを避けている部分があると思う。社会とどのように関わっていくべきかを考える時期にあって、既存のレールや多数派の価値観、楽な方に流されたくなる誘惑に負けずに、自分に正直に、タブーを作らずに問い直していきたい。

報告日:2017年10月28日