“Imagining the Possibilities of the University and Civil Society from East Asia – UTokyo-NCTU Summer Camp in 2016 報告 吉田 直子

“Imagining the Possibilities of the University and Civil Society from East Asia – UTokyo-NCTU Summer Camp in 2016 報告 吉田 直子

日時
2016年9月8日(木)〜9月11日(日)
場所
東京大学駒場キャンパス5号館515教室および21KOMCEE West K303
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト2「共生のプラクシス──市民社会と地域という思想」
協力
台湾・国立交通大学(NCTU)

報告者は9月8日からの4日間、駒場キャンパスで開かれた台湾の国立交通大学との合同サマーキャンプに参加した。台湾交通大学からは劉紀蕙先生、朱元鴻先生、陳光興先生と4名の学生が、東京大学からはIHSの石井剛先生と梶谷真司先生のほか、講演者として情報学環の吉見俊哉先生と首都大学東京の西山雄二先生、学生のセッションのモデレーターとして川村覚文先生と4名の学生が参加した。とはいえ、台湾側の学生の出身は、台湾だけではなく、香港、インド、ウズベキスタンと多彩で、日本側も2名は中国の出身であったこともあり、台湾と日本という二つの地域にとどまらず、アジア全体を射程に入れて考察することが自ずと要請される場となった。

今回の企画は、排外主義や格差社会の広がりといった、さまざまな課題を抱える市民社会に、大学、とりわけ人文学がどのように寄与できるのかを検討することを主眼に置くものであった。これに対し7名の先生方からは、大別すれば二つのテーマからのアプローチがなされた。すなわち、台湾の先生方からはカルチュラル・スタディーズの視点から分析するアジアの市民社会、日本の先生方からは大学の歴史の可能性に関する話題提供が3日間にわたって行われた。また最終日は学生のみで研究発表が行われた。話題は日本の中華保育園から雨傘革命後の香港の政治運動、インド系移民のアイデンティティ、台湾のHIV陽性者へのケアと啓発の動き、明治期の中国人留学生の南/北中国の概念など、内容の多様性もさることながらクロスボーダーなトピックに関する発表が目立った。

このようにきわめて幅広い話題が共有された今回の企画内容を個々に詳述することは難しい。そのため、この4日間全体を通じての報告者の所感を述べたい。

まず「アジア」ないしは「東アジア」という概念である。報告者はIHSでの経験を通じて、それまであまり意識していなかった「東アジア」という視点の重要性を痛感してきたのだが、ここにきて「東アジア」とは何なのかがよく分からなくなってしまった。例えばこのような場では、西洋近代主義の制度や価値観の対抗軸として「アジア」あるいは「東アジア」というキーワードがしばしば取り上げられる。しかしそれらはどのような意味において、西洋近代主義的「ではない」のだろうか。アメリカやフランスの事例に対し、地理的に「東アジア」に属する国の事例を提示すれば、それだけで西洋近代主義に物申したり、相対化したりすることにはならないはずである。あるいは、参照される思想家や評論家の出自が欧米だからといって、その思想がおしなべて西洋中心主義的であるとは言い切れないし、東洋の思想家のそれが西洋中心主義的な価値観から全く無縁であるとも言えないだろう。まして日本の戦後教育の歴史は、いわゆる西洋近代社会の進歩主義的な価値観が集団主義的な制度設計を通じて奇妙に強化されるかたちで変容してきた。その教育システムにもっとも上手く「適応」することができた人々が集う大学という場で、日本人というだけで自分はそのような価値観から無縁であるとどうして言えるだろう。だとすれば、そこで語られる西洋とは、近代とは、そして東アジアとは何を指すのか。むろんこのことをもってして「東アジア」に注目することに意味がないというわけでは全くない。こうした問いに対してこれまでも多くの研究者が検討を重ねてきたことも承知している。今回、台湾の先生方が、アジアの内なる植民地主義について論じていらっしゃったこともその延長線上にあるものだろう。ただポストモダンの文脈において、東アジアの人間が「東アジア」を語る際には、先の問いについて、先達の豊饒な思索に学びながらも、自分なりの見解を持っておく必要があると強く感じた。

もう一点は大学の可能性についてである。少子高齢化の進む日本で、入学対象となる若い学生の数は減る一方であるため、大学経営のことを考えれば、人文系学部廃止の是非はさておいても、学生の対象枠を広げるのは現実的な対策であろう。現に2000年以降、主要な大学で社会人大学院の新設が相次いだし、今回の議論でも、大学改革の一環として、人が人生で3回大学に入れるような体制づくりへの提案があった。しかし現実はすでに先を行っているように思われる。例えば今回参加した8名の学生のうち、報告者がたまたま把握しただけでも4名が社会人経験者だった。報告者もそのひとりである。NPOの代表として二足のわらじを履いている者もいた。自身の学びにおいて、あるいは市民社会に生きる者として、我々は誰に説得されるわけでもなく、それぞれの理由で大学という場を必要としているからこそ、ここに戻ってきている。そのような立場にある者にとって重要なことは、なぜ大学が必要かという分析よりも、門戸を広げたとき、大学はいわゆる生涯学習を提供する場となるのか、それともあくまで高等教育機関としての位置づけを保ち続けるのかという点である。あるいはその二つの機能は同じなのか異なるのか、異なるのであればその二つは両立しうるのか否か、という点である、より端的には、カルチャーセンターでの学びと大学での学びとの違いは何か、と言い換えてもよいだろう。加えて、学生を未熟者とみなす傾向の強い日本の大学の体制にも、社会人学生にとっては疑問を感じることが多い。この二点は、何年も前からすでに社会人学生の間で話題になっていたことであり、その意味でも現実は先を行っている。したがって大学の未来を考える際には、これまでの議論もむろん重要ではあるが、社会人学生のこうした現実を踏まえた観点からの検討──それはまわりまわって「大学とは何か」という問いに再び立ち戻ることになるだろう──も必要なのではないかと思われた。

最後に個人的な感想だが、今回、このような国際シンポジウムを支える裏方の作業の難しさを垣間見た。そんな中でも我々に有意義な場となるよう奔走してくださった石井剛先生とプロジェクト2の研究員の方々の細やかなご配慮に感謝申し上げたい。さまざまな個性を持つ人々を絶妙の距離感で上手く支えながら、臨機応変な対応で場を回して下さるようすに、大いに学ばせていただいた。

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報告日:2016年9月27日