滋賀研修「朽木で考える文化と食」報告 宮田 晃碩

滋賀研修「朽木で考える文化と食」報告 宮田 晃碩

日時
2016年1月30日(土)〜1月31日(日)
場所
滋賀県高島市(朽木ふれあいセンター、朽木保健センター)
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト2「共生のプラクシス──市民社会と地域という思想」
協力
朽木住民福祉協議会、高島市社会福祉協議会、たかしま市民協働交流センター、「たかしま・未来・円卓会議」運営委員会、総合地球環境学研究所
参加者
梶谷慎司(東京大学教授)、江口建(東京大学IHS特任研究員)、阿部ふく子(東京大学UTCP特任研究員)、前野清太朗(東京大学大学院博士課程・IHSプログラム生)、SINAPAYEN LANA(東京大学大学院博士課程・IHSプログラム生)、宮田晃碩(東京大学大学院修士課程・IHSプログラム生)

今回の研修では、「地域」をどう問題として捉えられるかという観点から、滋賀県高島市の朽木地区を視察した。2005年の合併までは朽木村として存在したこの地区は、森林資源にも恵まれているが、特に「鯖街道」の宿場町として知られている。沿道の地域には保存食として鯖の加工品が根付き、いまもその文化が残っているが、今回参加させていただいた地域の地域活性化イベントの中心「へしこ」も、そのひとつである。

まず出発前に梶谷先生による事前研修、当日の一日目に総合地球環境学研究所の熊澤輝一さん、滋賀県琵琶湖環境科学研究センターの木村道徳さん、および梶谷先生によるプレゼンテーションがあり、どのような文脈の中で地域再生の取り組みがなされているかを学んだ。当日二日目の午前は朽木の朝市(古くより行商の中継地として栄えた市場)と「丸八百貨店」を訪ねて町の様子を知り、午後には朽木保健センターにて、「朽木で、ずっと伝えていきたいものってなんだろう」と題したイベントに参加、運営の方たちの振り返りにも参加させていただき、帰京した。短い時間ながら、「地域の問題を考える」あるいは「地域“で”問題を考える」ということについて、豊かな示唆を得られたと思う。

梶谷先生による事前研修およびプレゼンテーションは、地域の主体性に焦点を合せたものである。例えば環境問題と一口に言っても、それはしばしば何が問題かということをあらかじめ設定するため、事態の一般的な面だけを取り上げ、肝心の背景を、また地域に固有の問題を捉え損なったものとなりがちである。多くの場合、環境問題は「中心‐周縁」という枠組みで起こっていると見ることができるが、それを周縁の側から内発的に捉え返す必要がある。そのために、地域での対話の場が重要となるのである。これは環境問題に限らない。地域の価値を売り出そうとするとき、「中心」における価値を模倣するのでは一方向の競争に巻き込まれ、「周縁」は苦しい状況を免れないだろう。むしろその地域に特有のものを改めて見出すことで、普遍的な価値を創出することが望まれる。そして、その価値を見出すプロセスが地域の人自らによって形成されることが重要なのだ。今回の朽木での取り組みは、まさにこのような問題意識に沿っている。

熊澤さんと木村さんのプレゼンテーションは、高島市および朽木において、どのような取り組みのなかで今回のイベントが開催されるに至ったのかという状況を示すものである。そもそも滋賀県の「持続可能な社会シナリオ」(2010年)に対して、県という規模が大きすぎることに鑑み、「たかしま・未来・円卓会議」を開いたのが発端であった。これはひとつの成果に結びついたし、さまざまなNPO法人が地域振興のためのプロジェクトを実行するきっかけとなった。だが一部の人の主導に留まり、「これらの価値は地域の人にとってどういう意味を持つか」という話は深まらなかった。より多くの人に、より主体的に関わってもらうためにはどうすればいいか、という検討を経て、現在の取り組みに至るというわけである。重要なのは、あらかじめ「これこれの問題を解決しよう」という姿勢で話し合いに臨むことではなく、本音で語り合い、地域の可能性を見出していけるような地盤を作ることである。

今回参加したイベントの主旨は、朽木に伝わる伝統食品「へしこ」を題材に、朽木に固有の価値を見直す、というものである。「へしこ」とは、鯖の塩漬けをさらに糠に漬けて乳酸発酵させた保存食品である。まず興味深いのは、地元の人にとっての「へしこ」の位置であった。伝統食材とはいえ、実際に家で漬けている人は多くない。また、かなり塩辛いので、体に悪いだろうと避けられる傾向もある。好き嫌いも分かれる。つまり伝えられてきたものの、「パッとしない食材」という位置づけらしかった。しかし、住民の方々との対話の中で気づかされたのは、「伝えられてきたもの」という事実はそれだけで大きな意義を持ちうる、ということである。おそらく「へしこ」に質的な必然性はないが、ともかく地域に伝えられ共有されていることによって、それにどう向き合うか、どう活かすことができるかということを共に考え、試行錯誤することができる。さらに今回は発酵食品に詳しい方がレクチャーに来られ、参加者一同、大いに得るところがあった。栄養学的な視点から地域の実情に合った仕方で地域の食を見直すというのは、メディアを通して一方向的に食に関する情報を得るのとは大きく異なる意義を持つだろう。自分たちの地域にはまだ知るべきことがあるのだ、という意識を起こさせるものだと思う。また、食だからこその利点もある。ひとつには健康という共通の関心がはじめからあることだ。もうひとつには、イベントで得たことを持って帰り、自分の家で展開できるということだ。その場で終わるのではなく、ごく自然に一人一人の生活に展開されるということは、多くのワークショップにとって課題となることだと思う。

実習後の振り返りで主に問題とされていたのは、どれだけ多くの人に、どれだけ継続的に参加してもらえるかということ、またどのような方向へこの会を持っていくかということであった。実はこの点を、私はよく分かっていない。例えば今回の参加者の多くは若いお母さん方であった。従って、特に男性へ間口を広げる方法が問題とされる。しかし、なぜ全ての層の人を参加させるべきなのだろうか。また、前回参加した人のうち、今回再び参加した人は多くなかった。従って、一度来た人が離れていかない工夫が必要とされる。しかし、離れていかないとはどういうことだろうか。尋ねそびれてしまったのだが、運営に携わる方々が根本的に何を問題と感じておられるのか、これがよく分からなかったのである。私は今回のイベントに関して、必ずしも多くの人の参加が重要なのではなく、むしろ緩やかな繋がりをつくることがその役割であるように感じた。このイベントをきっかけに「へしこ」を見直し、隣近所と知見を交換することがあるかもしれない。また、このイベント自体が話題の中心になるかもしれない。「協同する」という姿勢ができあがれば、「地域の問題を解決する」という取り組みも内発的に起こりやすくなるだろう。そのためにはイベントの内容もさることながら、イベントの外への広がりをいかに豊かなものにできるかが重要であるように思える。その意味で、食というのは効果的な役割を果たすと思われたのである。

こういった取り組みは、一見、哲学と何の関係もないように見える。しかし、その方法あるいは態度について言えば、互いに示唆するところがある。地域の共同的な意識にとって重要なのは、「共に探究する」ということだと思う。つまり自分たちの地域をなにか固定したものと見なさず、常に途上にあるものとして見出し、同時に「共にある」ことに対して信頼を置くような態度である。そのような探究の態度を、哲学は示すべきだし、逆に哲学も、「共に探究する」態度を現場から学ぶことができるはずである。それは必ずしも哲学の研究に参与している者の内でなされるとは限らない。外への広がりの豊かさということを考えることで、はじめて「何が問題なのか」ということを問う準備ができるのだと思う。

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報告日:2016年2月4日