「越境する情報とメディア―『T.K生』の時代と『今』を語る」報告 前野 清太朗

「越境する情報とメディア―『T.K生』の時代と『今』を語る」報告 前野 清太朗

日時:
2015年7月10日(金)
場所:
東洋文化研究所3階大会議室
主催:
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」「情報・メディア」ユニット「移動・境界」ユニット
共催:
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」「格差・人権」ユニット「東アジア」ユニット

T.K生こと哲学者・思想史家の池明観氏による本講演では、日韓基本条約前後の空気、T.K生時代の活動、韓国の民主化後の活動、そして、氏の歴史観などにつき広くお話をしていただいた。T.K生名による総合雑誌『世界』に連載した「韓国からの通信」(1973年~1988年)は、岩波新書化(1980年まで、4期分)され、英訳もされた。いわゆる維新体制の成立から崩壊、再軍政化とその解体プロセスを、国内外の人脈を通じて世界に伝え続けた。民主化後は韓国での生活を営み、金大中政権下では韓国における日本文化開放政策に携わった。

講演当日は、IHSプログラム生以外にも学内外から男女を問わず多数の人々がつめかけ、東洋文化研究所の大会議室を埋め尽くした。報告者の見知った方もおり、尋ねると、当時リアルタイムで『世界』の「韓国からの通信」を読んでいたとのことであった。会場には白髪の紳士淑女の姿も多々あり、池氏の時代に与えた影響力が想起された。 1924年生まれの池氏は、DMZ(南北軍事境界線)の北にある平安北道の出身である。日韓基本条約交渉が進む1960年代、反軍政運動として条約反対が巻き起こる中に池氏もおり、韓国の代表的な論壇誌である『思想界』で言論活動を展開した。40代で初めて日本を訪れた池氏は、日本を訪問して受けた心理的衝撃を紀行文「日本紀行」に記し、韓国内で発表した。掲載先の判断により連載は続かなかったものの、自身の日本での体験を記したこの文章は、氏が越境を自覚する契機となったという。

1972年、東京大学で思想史研究へ取り組みはじめた池氏は、中江兆民の思想に惹かれつつ、朝鮮思想史の起稿をめざしていた。しかし同年の韓国における維新体制の成立、そして、翌年の東京で起きた金大中拉致事件を目睹した氏は、『世界』における「韓国からの通信」の連載を通じた反軍政運動へ身を投じる生活を始めた。それはメディアを「日本とアメリカを動かす梃子」とする試みであったという。一方、氏によれば、「梃子」であるがゆえにその言論は戦略的であらねばならず、そのゆえの限界も持たざるをえなかった。第一に、言論は有効な影響力を発揮しつつ、正確さを保つべきである。しかし、記事の影響力をより重視し、情緒的な記事が多々あったと回顧した。第二に、記事に対する左右両翼からの批判へ対処するため、イデオロギー上のスタンスに制限を加えねばならなかった。これは後述する大同団結のための組織論とも関わる戦略であった。

こうした戦略的メディア利用の背景には、新聞・雑誌の情報伝達における影響力があった。しかし、現代のメディア状況はより複雑である。ソーシャルアクションを行う側、カウンターアクションを行う側、いずれも複数メディアへの同時戦略を試みる必要のある今日の状況に比べてみると、当時は、ある点で戦略が洗練しやすく、逆に潰されやすくもある状況であったといえよう。

池氏の活動を支えたのは、『世界』ほか国内外の同志のネットワークであったが、そこには氏のキリスト者としてのネットワークがあった。「韓国からの通信」の記事が、韓国の政治情勢と教会運動から始まるように、氏の国内キリスト者との絆が運動を強く下支えしていた。それは、氏が好んで引くという「大きな教会の中の小さな教会」との言に代表されるように、異なる者同士でも大きな連帯を求める姿勢が運動を続けさせたものであることに違いはない。異なることから始まるコミュニケーション、すなわち、他者との相互調整に基づいた連帯の思想は、本プログラムの理念「多文化共生」に通じるヒントとなるように思われる。

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報告日:2015年7月24日