対談:小林康夫×橋本悟「人文科学のいま」報告 崎濱 紗奈、伊藤 寧美

対談:小林康夫×橋本悟「人文科学のいま」報告 崎濱 紗奈、伊藤 寧美

日時:
2015年1月26日(月)10:40−12:10
場所:
東京大学駒場キャンパス101号館2階研修室
講演者:
小林康夫(東京大学・IHS)、橋本悟(シカゴ大学)
主催:
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト1「生命のかたち」

崎濱 紗奈

2015年1月26日(月)、小林康夫先生(東京大学IHS・プロジェクト1)と橋本悟先生(シカゴ大学)の対談「人文科学のいま」が開催された。本報告書では特に、橋本悟先生が現在構想されているという「trans-Asia」という概念について考察したい。

橋本先生は博士論文の執筆を通して、アジアと呼ばれる地域(特に「東アジア」)を越境横断する理論の構築を目指された。背景には、「アジアに理論など存在するのか」という欧米の研究者からの容赦ない批判(時にそれは「侮蔑」とも呼べるようなものだったのかもしれないと推察する)に対する反発があった、と先生は語った。これまで理論化されてこなかった「東アジア」概念を、日本・韓国・中国・台湾の文学作品を手がかりにその輪郭を捉えようというのが「trans-Asia」という試みに込められた思いである、とのことだった。

これに対し小林先生は、「trans-Asia」は単なる比較論であってはならないと指摘された。先生によれば、比較とは「枠」であり、「それだけでは方法たりえない」ものであるという。そこで小林先生は、研究者自身が「trans-Asia」するのではなく、文化それ自体が既に「trans-Asia」している状況に目を配ることを提案された。先生はそれを一言で「文(letter)」と表現された。ジャック・デリダは『エクリチュールと差異』において、ヨーロッパにおける音声中心主義を批判したが、翻って東アジアを見た場合、そこにはむしろ「文(letter)中心主義」とも呼べるような文化状況がある。魯迅は、この「文(letter)中心主義」が、アジアにおける近代的主体の構築を阻んでいるのではないかと嘆いた。

このように「文(letter)」に阻まれるものもあれば、反対に、「文(letter)」を介して繋がった人々もいた。橋本先生は、帝国日本において、「日本語」という宗主国の言語を用いながら、朝鮮の作家と台湾の作家が手紙を交わし合ったことに触れた。ここには、植民地支配という負の歴史によって開かれた(開かれてしまった)「trans-Asia」という空間がある(ただし、帝国日本の建設という政治的意志においては、「trans-Asia」という空間を開くことこそがまさに目的だった、ということには十分留意する必要があるだろう)。ポスト・コロニアル理論の多くは、英仏帝国の旧植民地から生まれてきた。そうした歴史を踏まえ、帝国日本のポスト・コロニアルな状況を理論化していく作業こそ、「trans-Asia」なのかもしれない、と思った。

対談:小林康夫×橋本悟「人文科学のいま」報告 崎濱 紗奈、伊藤 寧美

報告日:2015年2月9日

伊藤 寧美

本講演は、IHS特任講師を務められ、また東京大学の卒業生でもある橋本先生と、かつての指導教官であった小林康夫先生の対談という形で進められた。

大きなテーマの一つは、比較文学研究者である橋本先生が、東京大学での学びと、アメリカ、台湾留学の経験を経てどのようにキャリアを積み上げてきたか、またそうしたインターカルチュアルな経験が、ご自身の研究においてどのように結実したかという話題であった。私自身、演劇と分野は異なるとはいえ、比較研究を志すものとして、母国である日本、対立しつつも強く影響を受けている西洋、そして自身が属しながらも複雑な距離感を持つアジアという三つの視座が大変重要なものとなってきていることを痛感している。橋本先生は、日本以外の東アジア圏で書かれた日本語の文学作品、という重要な研究テーマを見つけられたが、そうしたこれまで着目されてこなかった作品を見つけ出す鋭いアンテナ、そしてその研究が自分の専門領域においてどれほど大きな意義があるかを語る言葉を持つことは、作品分析をするうえで今後私自身も鍛えていくべき能力であると感じた。

もう一点、個人的にとても示唆に富んだ話題は、質疑応答の時間で橋本先生へ向けられた問いである。哲学研究者の方から「先生にとって実存とはどういうものなのか?」という問いが投げかけられた。その時、橋本先生が大変個人的な経験をお話になったのが印象に強く残っている。リサーチ中に出会ったある研究者の一言が、その後の分析の大きな手掛かりとなったというエピソードを挙げられていた。そうした、不意の出会い、研究者同士の細やかな接点が、自身の研究の糧になると同時に、その出会い自体に喜びを感じるというお話だった。橋本先生のお話ほどドラマティックではないが、似た経験は私の短い院生生活の中でもいくつか覚えのあるものである。とりわけ演劇研究では、劇場や演劇祭に赴き、他の研究者のみならず、アーティストやプロデューサーと直接顔を合わせる機会が多い。私自身も、例えば演劇祭での様々な人たちとの偶然の出会いが、その後の自身の研究を培ってきた部分が少なからずある。演劇と言う共通の土壌において人と出会い、語り合うことが、私の研究、ひいては私の生を豊かなものにするという実感は、橋本先生と共有するものであったと思う。

IHSには半年しかおられなかったが、先生から学んだことは多い。常に学生の立場にたって物事を見てくださる方だった。その精神をきちんと引き継ぎながら、リーディング大学院における今後の活動を進めていきたいと、この度お会いして思いを新たにした。

対談:小林康夫×橋本悟「人文科学のいま」報告 崎濱 紗奈、伊藤 寧美

報告日:2015年2月16日