2019年ベルリン・パリ研修「ジェンダーと多文化共生」報告 陳 啓翔

2019年ベルリン・パリ研修「ジェンダーと多文化共生」報告 陳 啓翔

日時
2019年3月9日~22日
場所
ベルリン自由大学(ドイツ)、パリ・社会科学高等研究院EHESS(フランス)
主催
東京大学大学院博士課程リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム」教育プロジェクトS

筆者は、3月9日から22日にかけ、ドイツとパリを訪ねた。3月9日から3月16日までは東京大学国際総合力認定登録の学部一年生たちのためのウインター・プログラムのTAとして、ベルリン自由大学の研修に参加した。ドイツの言語、社会と歴史(特に第二次世界大戦への反省、東ドイツにまつわる問題群)、ジェンダー事情、移民問題などに関する講義を受け、フィールドワークを行なった。パリでは、主にEHESSの研究者、院生たちとそれぞれの研究成果を発表しあい、「研究」について向き合い、議論を重ねた。

s_201903_berlinparis_01_1.jpg
s_201903_berlinparis_01_2.jpg

本稿では、「intersectionality 」、「かべ」、「共生」という三つのキーワードで、研修の内容と感想をまとめる。

「intersectionality 」というキーワードは、ドイツ自由大学のジェンダーの授業で何度も強調された概念で、ジェンダーを研究する大事なアプローチの一つであるそうだ。

「intersectionality」というのは、社会のカテゴリーについて考える際に、一つのカテゴリーを抽出し、単独に考えるのではなく、複数のカテゴリーの関係、重複、インタラクションなどを吟味すべきという考え方である。「ジェンダー」というのは、一見「男女平等」「性的マイノリティーの権利保障」というシンプルなイシューに見えるだろうが、その背後に複雑な権力関係が絡み、単独に抽出することはもはや不可能である。「ジェンダー」の問題を論じるときに、ただ単純に「女性と性的マイノリティーたちを支援して、差別をしない」というのはもちろんのことだが、それだけでは問題が解決できない。なぜならば、もっと深刻な問題は社会構造に畳み込まれ、様々なカテゴリーに関わり、複雑な権力関係に影響されるからだ。たとえば、教育の問題においては、教育機関は自ら女性の学生を差別し、不利益を与えることは一般的ではない(もちろんそんなこともあるが)。しかし、結果からみると、日本の国立大学において、女性の学生の割合がありえないほど低い水準となっている。なぜかというと、それは日本社会の役割分担の考え方などにつながっている。日本にはまだ「男がそと、女がうち」という伝統的な考え方があるゆえに、女性への教育は資源の無駄遣いという考え方は社会、家庭の中で根強く存在している。親は女の子の教育に、男の子ほど熱心ではない。より致命的なのは、女の子自身もそのような社会構造を内在化して、「専業主婦になる」ということを当たり前のことだと認識してしまう。そこで、ベルリンのEAFセンター(Europäische Akademie für Frauen in Politik und Wirtschaft Berlin)でのワークショップと、ドイツの学生たちとの語り合いから、日本ほどではないが、ドイツにも同じジェンダー・バイアスが存在し、それに対して女性への意識改革がとても重要であると思った。EAFベルリンという機関は、もちろん女性に対する教育支援、就職支援もしているが、ワークショップで女性たちの夢を応援し、意識改革も重要な一環となっている。また、筆者たちはEAFのワークショップを少し体験してみた。講師は「スポーツが好きだ」、「大人数の集団がわりと得意」などを読み上げ、それが自分に当てはまると思う人に立ってもらう。とても不思議なことに、筆者はこのような共通点を認識し合うことで、他の人々とジェンダー、人種、言語を越える連帯感を感じ、感動を覚えた。また、ジェンダーのイシューは、人種問題などにも似ていて、根元からつながっていると思った。前述した部分は主に「ジェンダー」を中心にしてきたが、「intersectionality 」という概念に象徴されるとおり、「ジェンダー」のトピックのみならず、多文化共生における「人種」「宗教」「階級」とつながっており、ジェンダーについて考えるときに、こうした諸概念が同じく重要かつ基本となると言えるだろう。

s_201903_berlinparis_01_3.jpg

今回の研修でとても印象に残ったのは、様々な「かべ」を感じたことだ。ベルリンには東ドイツと西ドイツの壁が壊されて三〇年ほどの月日が流れた今でも、西と東の間に、「格差」という「かべ」が鮮明に感じられる。また、その「格差」はパリでも同じく感じられる。ゴージャスなギャラリーを構える高級マンションの狭間に、ホームレスたちが路頭に迷い、ぎりぎりのスペースで寝る場所を確保している。立派な建築物とおしゃれなカフェが散布している中で、デモで壊されたガラスの破片が痛いほどところどころ目に映ってしまう。また社会階級の「格差」という「かべ」のほかに「人種」「言語」「文化」「宗教」もまた「かべ」になってしまう。ベルリンもパリも移民が多いだけに、「移民問題」「難民問題」「人種差別問題」がまだまだとても顕在化している。ベルリンのRefugeeツアーで、難民としてベルリンに移住した講師は、自分の経験について語った。ベルリンに来たばかりのとき、自由が制限され、住環境の条件が厳しく、やっと自由が手に入ってもマンションが見つかるまでに一年間までかかった。ドイツ歴史社会の授業でも、パリの大学院生たちとの議論でも、ヨーロッパの「移民問題」「難民問題」の厳しさが浮き彫りにされた。またドイツ語とフランス語のできない自分の体験からみれば、二週間でも「言語」という「かべ」を思う存分にしみじみと感じてしまう。ここで「intersectionality 」の考え方を応用してみれば、やはり「格差問題」も「移民問題」も「人種問題」も根本から似通っており、絡み合っていることが分かる。このように無数の「かべ」が存在し、交差し、「カテゴリー」として人々を切り離していく。その「かべ」が極端に走れば、国粋主義やファシズムまで発展したり、戦争や惨劇につながりかねなかったりする。ベルリンの歴史博物館、ナチスの強制収容所を見学したときも、戦争の悲惨さと歴史の重さを思い知られた。ただし、平和を唱えるのみでは、やはりとても不十分だろう。さまざまな「かべ」の存在とその「intersectionality 」の結果への認識、社会構造への反省、共生への道を探ることこそが、戦争責任というものだと思われる。私はドイツにおいてそれを感じ取ったが、日本にはその点に関して恐ろしいほど足りないように思われる。

s_201903_berlinparis_01_4.jpg

今回の研修で「共生」のありかたについても改めて真剣に考えるチャンスが多かった。ただ同じ空間を共有することは、「共生」と言えるだろうか。他集団と最低限に触れ合うだけでも生活ができてしまうだろうが、それは「共生」だろうか。それとも、自分のアイデンティティを抑え、他集団と完全に溶け込み、同化するストラテジーが「共生」だろうか。それはかなり難しいトピックであると思った。しかし、筆者の考えでは、「無関心」も「同化」も「共生」ではない。さまざまなアイデンティティを許容することと、互いに理解、興味を示し合うことが、「共生」と呼べる二つの条件だと考えられる。「共生」への道は、「かべ」が林立された社会ではさぞ険しい。また「intersectionality 」の考え方もわかるように、それらの「かべ」は互いに交差し、複雑な構造を持っている。そのため、簡単につまずいたり、迷宮入りしたりする。しかし、希望はないわけではない。EHESSの研究会では、社会科学の研究者たちがそれぞれの問題意識を持ち、活発に議論し、社会問題に真剣に向き合う姿に感心した。また、Refugeeツアーの講師は、自分がドイツ語の勉強に励み、積極的に「かべ」を越えようとしていて、非常に勇気づけられた。さらに、スポーツ、アートなどにも「かべ」を超える力を持っていると感じた。ドイツでは、様々な人種と宗教の人たちは、サッカーに夢中することや、パリのモダンアートによって人々が同じ時間と空間を共有するなど、さまざまな「共生」の風景が印象的だった。社会への関心を寄せつつ、問題意識を持ち続けること、つねに意欲を持ち続けと努力を惜しまないこと、スポーツやアートなどの世界共通の楽しみに楽しさを見出して価値を共有すること、今回の研修で「共生」へのヒントがいくつかつかんだと思う。

s_201903_berlinparis_01_5.jpg

報告日:2019年3月23日