姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』ブックトーク報告 田中 瑛

姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』ブックトーク報告 田中 瑛

日時
2018年12月12日(水曜日)
場所
東京大学駒場キャンパス・21 KOMCEE EAST 地下K011教室
主催
  • 東京大学大学院博士課程リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム」教育プロジェクトS
  • メディア表現とダイバーシティを抜本的に検討する会(MeDi)
協力
株式会社文藝春秋

2018年12月12日、東京大学駒場キャンパス21 KOMCEEで、姫野カオルコ氏の小説『彼女は頭が悪いから』(2018年、文藝春秋)のブックトークが開催された。本作品は2016年の東京大学の男子学生らの強制わいせつ事件に着想を得たフィクション作品として反響を呼んだ。この物語には、横浜郊外にある普通の家庭で育った「普通の女の子」である美咲と、その幼馴染であるつばさをはじめ東大生男子5人が登場する。脚色もされてはいるが、実際の事件の資料を元に構成されており、加害者のうち3人が深夜のアパートの一室で美咲に対してアルコールを飲ませて裸になるように強制した罪で逮捕・起訴されるという事実と同じ結末を迎える。

本企画では、作者の姫野氏と文藝春秋担当編集者の島田真氏だけでなく、コラムニストの小島慶子氏を司会として、メディア研究が専門の林香里教授、駒場の教養課程でジェンダー論を教える瀬地山角教授、ちゃぶ台返しアクション代表の大澤祥子氏が登壇した。事件の加害者が通っていた東京大学を会場としてこうした企画を行うことは異例である。学歴社会とジェンダーという論点が交錯し、非常に重い空気の中で論争的なパネルディスカッションが展開され、既にウェブ空間上では参加者が様々な見方を提示している。しかし、林教授が冒頭で説明した通り、本企画は東大に外からの空気を取り入れることで自己変革を促す取り組みであり、その意味では十分な成功を収めたと言える。その議論の全てを正確に詳述するには複雑で紙幅が足りないため、特に重要だと思われる箇所を報告者の解釈を交えながら報告したい。

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パネルディスカッションでは「東大」という記号の問題が主要な論点として挙げられた。瀬地山教授は、東大の描写が事実と異なるだけでなく、「東大」という記号の強い部分だけを再生産し、それが東大生にもたらす抑圧性を捨象していると強く批判した。それに対して、そうした描写の正確さは本質的問題ではないという反論が展開された。例えば、島田氏は、小説中の「東大生」と「普通の女の子」は、一般向けに事件を分かりやすく表現するためのデフォルメされた表現に過ぎず、「事実を超えたリアリティ」の方が大事であると指摘する。もちろん、実際の東大生の多くが撞着と抑圧が混在したコンプレックスを感じていることはやはり問題であるが、何かの問題を前景化すれば別の問題が捨象されるというのは、あくまでも言葉による表現活動の限界に過ぎない。小島氏が示唆したように、何らかの事実と脚色の相違を根拠に論点をずらすならば、この小説だからこそ提起することのできる本質的で価値的な問題を見落とす。

質問者として矢口祐人教授が指摘したように、小説は想像力を働かせることで多様な読み方が可能である。特定の主体位置に拘泥するのではなく、自己の内面の多様性を動員して作品を読めば、「東大」を「慶應」(報告者の出身校)に置き換えることもできるし、(報告者は男性であるが)被害者の女性としての経験を追体験できる。すなわち、小島氏が述べるように、「どちらの気持ちも分かってしまう自分がいる」という点が、実は重要で面白い点ではないかと思う。作者である姫野氏が「竹内つばさは自分。悪く描いたものは全部自分なんですよ」と述べたように、本作品は自己の内面の多様性から描き出され、読者の自己の内面の多様性をも暴き出す鏡として読むことができる。作者自身が認めるようにそれはとても不快な体験である。ところが、実在の事件をそのように読むからこそ、事件を自分にとってリアリティのあるものとして考える機会になるのではないだろうかと感じた。この点で、「東大」が象徴する問題は東大だけでなく社会全体と結び付いているという、林教授の指摘も重要だと感じた。近年のテレビ番組に見られるように「東大」は過剰に消費され、強者優勢的な価値観を再生産し続けている。それに対し、林教授は「東大の弱さから強くなる」ことで、そこに多義性を付与する必要性を繰り返し主張していた。あらゆる他者へと想像力を働かせる理性は、東大生に対して期待される別様の在り方の一つであり、それは自身の脆さを認めることから生み出されるように思われる。

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小島氏が強調したように、本作品は「東大」と「性的わいせつ」の掛け合わせである。だからこそ、学歴社会とジェンダーを包括する構造的な問題を考える一歩となりうる。例えば、それは「合意」を曖昧にする不可視の権力性として提起される。大澤氏はちゃぶ台返しアクションの再発防止に向けた取り組みを紹介し、価値観を再生産する構造に個人やコミュニティが介入することで、性的合意を可能にする環境を構築することが重要だと説明した。男性が女性を所有し、高学歴者の意志決定が低学歴者の意志決定に優先されるという伝統的構造は手強く社会全体で容認されやすく、「東大生を貶める勘違い女が合意の上でやった」という不当な認識が拡散された温床となったと言える。姫野氏はまさしくこの点に違和感を覚えて小説を書き始めた。作品でも生々しく描かれているように、加害者やネット上の暴力は、被害者の頭の中で反復してトラウマとなり、自己の尊厳を破壊していく。姫野氏が「エロいという感情と尊敬の感情は反比例する」と比喩的に述べた際に、この場面がふと思い出された。それを他者の身体の所有を求める欲求が、他者の意志の自由を尊重しようとする愛情と相容れないことだと理解するならば、それはあらゆる暴力の本質を突く表現となるのではないだろうか(例えば、経営者による従業員の身体の束縛を当然視するブラック企業もその一例だと報告者は考える)。会場で配布されたちゃぶ台返しアクションの性的合意のハンドブックにも「自分の身体は自分のもの」と書かれているが、このことは意識しなければ忘却されやすい。ちなみに、支配と従属の人間関係が悲惨な結末をもたらす本作品は、意外なことに「ボーイ・ミーツ・ガール」的な物語として構想されている。これは執筆に際しての裏話であるが、相手の違いを尊重して、脆さや醜さも含む自分の内面的な多様性を自覚できたならば、誰も不幸にならずに済んだことを暗示しているようにも感じられた。実に素朴で当たり前なことであるが、その重要性を繰り返し肝に銘じながら、なぜその「素朴で当たり前」が上手く実現しないのかについても考えていきたい。

報告日:2018年12月20日