“Joint Seminar: The University of Tokyo –– Freie Universität Berlin” 報告 田中 瑛

日時
2018年3月1日(木)~3月10日(土)
場所
ドイツ・ベルリン
主催
東京大学大学院博士課程教育リーティングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト4「多文化共生社会をプロデュースする」及び教育プロジェクト5「多文化共生と想像力」

2018年3月1日~10日、東京大学とベルリン自由大学のジョイントセミナーがドイツ・ベルリンで行われた。このセミナーでは「デジタル化・グローバル化時代における多様性 (Diversity in the Age of Digitization and Globalization)」を主題として、現代社会における文化的多様性の問題を様々な角度から議論し合った。

日本とドイツはどちらも世界大戦の敗戦国であり、戦争責任に関する集合的な記憶が論争的な形で今も影を落とす。しかしながら、その後に歩んだ歴史は大きく異なる。ドイツは東西分裂と再統合という過去を経て、今日でもEUの危機や難民受け入れといった契機に直面している。本研修では映画『グッバイ!レーニン』の鑑賞会やリーディングマテリアルの講読などを通じて事前にそうした背景の理解を深めた。そして、実際の旅中で報告者が得た知見は大きく、文化的多様性と民主主義の問題に要点を絞りながら、以下で報告を行いたい。

研究者の説明責任について

まず、2日、3日に合同でのプレゼンテーション・セミナーが開催された。このセミナーの目的は、プレゼンについて研究者が身につけるべきスキルを練習と対話を繰り返して習得することである。プレゼンはその目的を意識する機会が少なく、自分の言葉で伝えること自体が単なる様式美になりがちだ。その点について、このセミナーからは論文執筆とは異なる重要な点が二点あることを確認した。

第一に、ボディ・ランゲージや声の調子を含めた身体的な要素を活用することで、プレゼンテーションに意味が生じる。なぜならば、それは聴衆の自身に対する印象を変えるだけでなく、その後の議論を活性化するのに寄与するためである。そこで培われる発表者と聴衆の信頼関係は、科学者コミュニティの目的の一つである討論を通じた真理の追求に寄与する。第二に、補助に過ぎないスライドやスクリプトに「喋らされている感覚」に陥ることを自覚した。特に外国語での発表では、自分自身で話す内容を理解しつつ相手に意図が伝わっているかを確認する余裕がないことも多い。聴衆側もより分かりやすい説明を求めて参加しているため、市民に対する説明能力の普段からの涵養が重要である。

また、ベルリンの学生の英語力の高さに驚かされるだけでなく、自分の意見を伝える機会を逃さないことの重要性を肌で感じた。コンテクストを抜きにして討論を行う際に、積極的発言を控えがちになってしまうことを自省する良い機会となった。

ジェンダー観の違いについて

講習の成果を踏まえて、5日にワークショップが開かれた。先方の学生の多くが北朝鮮や韓国の事例研究を専門としており、社会学や歴史学を中心に報告者自身の研究とも重なる様々な理論が随所に見られた。

IHSの参加者は「日本人は男女平等をどう考えているのか (How do Japanese People Think of Gender Equality?)」という主題で発表を行った。近年、東京大学では男女比率の不均衡が国際的評価に関わる問題として認知され始め、その不均衡が日本社会の構造に与える影響を公正性の観点から捉え直す必要性が生じた。そして、前期教養課程の女子学生への家賃補助に対して寄せられた批判を量的・質的に分析し、「機会の平等」が「結果の平等」に優先すると認識されていることを明らかにした。報告者は分析結果の内省的考察を担当し、文化的承認の問題を経済的再配分という手段に還元するのではなく、教育、労働、家庭の間で再生産され続ける社会的な悪循環をどう解消するかが重要であることを論じた。これに対してベルリンの学生から様々な意見が寄せられ、共にジェンダーにおける公正さを考える良い機会となった。

6日にはジェンダーに関わる学内の諸機関 (Margherita von Brentano CenterとGender Equality Office) でベルリン側の事情について説明を受けた。ドイツでも大学の研究職では男女の雇用格差が問題とされ、実際に多くの予算が男女平等推進に割り当てられている。その根拠はベルリン高等教育法 (Berlin Higher Education Act) であり、ドイツ基本法第三条にもある「既存の不利益を除去する努力」に依拠している。すなわち、積極的是正に向けた法的整備と組織化が徹底的に推進されたことで、アファーマティヴ・アクションが外在的で強力な妥当性を有してきた点が日本とは異なる。もちろん、一般的な個人が抱く潜在的意識と実際の政策の間にある齟齬を十分に観察するには時間は足りなかったが、ジェンダーが既に政治の領域に昇華されていることは間違いないだろう。

民主主義と文化的多様性について

本研修では自主的な行動の時間も設けられ、文化的多様性と民主主義の関係について考える良い機会となった。参加者は4日にホロコースト記念館、7日にテロのトポグラフィーと、第二次世界大戦時の負の遺産を訪れた。カール・シュミットが民主主義において多様性が相容れないことを指摘したように、民主主義において成立したナチス政権は同質的な民族基盤から様々な「他者」を排除した。そうした構造における暴力性を、手記、日記、家族史などあらゆる立場の主観的経験の蓄積から問い返すことは、歴史を実在的なものとして割り切ることの難しさを浮き彫りにする。

そして、現在もこうしたリアリティの重要性は変わっていないように思われる。4日の難民ツアーでは、シリア出身の難民のガイドから話を聴いた。ドイツは100万人の難民を受け入れており、安全地帯を求めて移動を続ける難民はドイツに居を見出す。だからこそ、難民の多くはドイツの生活に馴染みたいと考えているが、一枚岩のステレオタイプで眼指されることで「他者化」されてしまう。

民主主義と多様性の承認を両立する上で重要なのは、アイデンティティをどう捉えるかである。7日には戦前のチョコレート工場跡地に作られた女性専用の複合施設を訪れた。利用者がいない時間帯に特別に施設の中を見せてもらうと、サウナ以外に工房、スポーツジム、住居がある。ここには、女性が自分自身でできることを増やすという一貫した目的意識があるが、決して男性と女性の関係は相互排他的だとは考えられていない。ドイツのための選択肢 (AfD) への対抗運動や環境活動などの他の運動と緩やかに接続することで、工場跡の位置する附近の一帯には独特の政治的コンテクストが生じているためである。

そのことがよく理解できるのは、8日に参加したベルリン市街のWomen's Marchである。このデモ行進には老若男女が参加し、女性、LGBT、外国人、障害者、学生と特定の要素には還元されない広がりが生じ、様々な論題に関する主張が掲げられる。局所的な当事者性やワン・イシューを重視する日本の伝統的なデモ形態とは大きく異なり、市民が主張する「場」である街道や広場が緩やかな対抗文化を形成している(もちろん、そうした場はAfDのような反動的な運動にも同様に開かれているとも言える)。翻って、日本社会で「政治」について声を上げることの難しさを肌で感じた。文化的な相互承認の推進のためには、同質的なコンテクストを除外しつつも声を上げる必要がある。この経験を糧として、主体と構造の関係性について今一度深く考える良い機会としたい。