「カザフスタン・高麗人の歴史と文化を学ぶ研修」報告 葛原 敦嘉

「カザフスタン・高麗人の歴史と文化を学ぶ研修」報告 葛原 敦嘉

日時:
2020年1月3日(土)~11日(土)
場所:
カザフスタン共和国・アルマティ市ほか
主催:
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクトH「生命のポイエーシスと多文化共生のプラクシス」

2019年1月3日~11日、「カザフスタン・高麗人の歴史と文化を学ぶ」にて、外村大教授、岡田晃枝准教授、IHSに所属する特任研究員2名の引率のもと、学生9名はカザフスタンへの研修へ参加する機会を得た。単一民族思想を妄信する人の多い日本とは異なり、カザフスタンは130もの民族が共生しているという。わたしたちは、そうしたカザフスタンの共生のあり方、そしてそこに住む高麗人について学習するため研修を行った。研修の詳細を記述するとともに、わたしがそこから学びえたことや、強く思考させられた物事について報告したい。

はじめに、2019年12月3日に駒場キャンパスで事前学習会があり、カザフと高麗人の複雑な歴史について学ぶ機会を頂いた。そこでは、アルファラビ・カザフ国立大学から来日してくださったイェム・ナタリア先生が、高麗人はどのようにしてカザフにやってきた、連れてこられたかを映像を交えながら詳細に講義してくださった。そうした事前学習に加えて、わたしたちは研修先のカザフ国立大学極東学科の学生の皆さんに対して発表する機会を頂いたため、講義から着想を得て、日本における共生をテーマに、歴史班、法律班、市民活動班に分かれ、それぞれが出発までに様々な準備を行い研修に臨んだ。歴史班に属していたわたしは、とりわけ在日朝鮮人の歴史について、発表時間の10分にまとめるという暴力的になりかねない作業に頭を悩ませることとなった。

1月3日に日本を出国したわたしたちは、アルマティ空港で、カザフ国立大学のイェルラン先生、イ・ビョンジョ先生、サマル先生による温かい歓迎を受けてカザフスタンにたどり着いた。二日目には、カザフ国立大学にお邪魔し、極東学科についての説明や、今回の研修がいかなるプロセスで実を結んだか、歓待のもとお話を伺った。カザフの生活では、学生や先生方が大変親切にアテンドしてくださり、大きなトラブルに直面することはなかった。三日目にはアルマティ市内にある日本人墓地を訪問した。しかし、厳冬期であったため、伝統的なユルタ村や、個人的に目玉の一つとして考えていた高麗人がカザフスタンに最初に連れてこられた地ウシュトベへの訪問は実現しなかった。四日目には、カザフ国立大学の学生さんに日本の多文化共生をテーマに発表をした。内容は、カザフ大修士課程のマジさんが日本語と英語を交えつつ、博士課程の学生の方の支援とともに、通訳に尽力いただいた。発表については、皆さんの熱心な質問によって盛り上がったものの、膨大な情報を詰め込み過ぎたために時間が大幅に超過してしまったことや、連絡の行き違いがあったことから、発表するはずだったカザフ大の学生さんの発表が出来なくなってしまった。

その後、学生の皆さんと食事を共にし、交流を行った。わたしはカザフ人のアナールさん、ウイグル人のザミラさんとテーブルを共にし、楽しい時間を過ごすことが出来た。五日目はウシュトベを断念したために、休暇となったが、学生のエイリックさんがグリーン・バザールなどに連れて行って下さり、カザフの街を観光することが出来た。六日目には、イ・ビョンジョ先生によるCIS高麗人の歴史と文化についての講義と、サマル先生の準備されたカザフスタンの歴史と文化についての講義が行われた。七日目には、高麗日報及び高麗人協会と、高麗人劇場を訪問し、様々なお話を伺った。八日目には、お世話になった先生方や学生の皆さんをランチにお招きした。日本語、英語、ロシア語、韓国語、カザフ語、五つの言語が飛び交い、翻訳されあい、大変豊かな時間となった。それぞれが全体に話す時間などもあり、お世話になった先生方・学生の皆さんへの感謝や、カザフでの気付きや関心など思いの丈を共有した。そうして、最後までお見送りしてくださったイェルラン先生、イ・ビョンジョ先生に名残惜しくもお別れを告げ、アルマティ空港から夜の便へと搭乗し、1月11日のお昼に成田へと到着したわたしたちは、それぞれの帰路へとついた。

次に、わたし自身が思い起こしたことについて記述したい。コリアンやカザフの歴史を学ぶにつれて、自身と日本の関係性をもう一度問いただされたこと、今回の研修を実現するにあたって境界とそこに結びつく権力性を体現する「ビザ」や「パスポート」をめぐる問題が起きたこと、そして自身の課題として一枚岩ではない「民族」をどのようにすればもう一度問い直すことが出来るのかという困難に直面したことが、自身の心を動かした大きな出来事であった。在日朝鮮人の歴史を10分間でカザフの皆さんに、一から説明するという難題にぶつかったわたしは、「日本」に結びついた途方もない暴力の歴史と直面し、そうした歴史と距離をとって生きてこられた自分の無知と特権を刺すような、様々な思考と経験があり、今後とも、自身の位置とその歴史や諸個人の痛みと向き合わなければならないと再確認した。また、今回の渡航に際してカザフスタン政府へのビザ・インビテーション申請の際に生じたトラブルから、そこに複雑な関係性や政治性が体現されていることに直面させられた。最後に、民族の共生が謳われているカザフスタンにおいていったいどんな抑圧が見過ごされているのか、あるいは民族の共生という名のもとにどのような民族の問題が不可視化され、沈黙されているのかということを考えさせられた本研修では、この最後の点を掘り下げて記述したい。

同じ高麗民族という言葉一つとっても、それぞれの社会的な立ち位置や状況が異なるだけで、その民族性は全く異なる色を帯びるだろう。例えば、その人たちが、いつどのような理由でカザフへと渡って来たのか、その人のジェンダーやセクシュアリティ・階級・能力など、カザフのコリアン、そしてコリアンという民族性は決して一つにはなり得ない無数の差異を抱えている。そうしたコリアンがまとまりを得ようとする時に、いったいどのような葛藤がそれぞれの人生に生じているのか、そうした葛藤の中で人々はどのように生き延びているのだろうか。

わたしは、今回の研修に参加するに至って、そのような疑問を抱きながらカザフスタンを訪れた。もちろんあら捜しをするためではなく、そうした葛藤の声がどこかでかき消されていないか、という不安からである。しかし、問いを投げかけた際に、多くの場合に返ってきたのは、調和的で「民族問題のない」カザフスタンというイメージや語りだった。自分には、そうした疑問を言語化する能力や安心して語るための場所を作る能力が足りなかったのかもしれない。あるいは、多くの人々の実感として、やはりそのように感じられているのだと思う。そうした感じ方を否定するつもりは全くないし、もしかしたら「民族問題」は本当にないのかもしれない。こうしたやり取りに付随して、さまざまな疑問が浮かんでいた。例えば、「民族問題がない」ときに、それぞれの民族の中に生じている女性蔑視等の問題は、決して「民族問題」ではなく、分離された「ジェンダー」という領域の問題なのだろうか。さらに個人的な例を挙げてみるならば、わたしがカザフスタンに入国する際に抱いていたのは、希望だけでなく、そう少なくはない恐れだった。1998年に同性間の性交渉が「合法化」された国において、女性性をおびた男性として認識されうる自分は、果たして差別や日常的な監視に直面しないだろうかという不安である。そして、特定の文化圏に結びついた嫌悪の傾向と、そうした傾向によって不安を抱いてしまう自分に対する葛藤である。そうした誰にも共有できない不安は、直接的な意味で実現されることはなかったものの、完全にその不安と違和感が消えることもなかった。そして日本に帰国した後も自分の心に残るのは、「民族」やその中に密接に結びついた文化に渦巻く問題から、何が締め出されているのかという疑問である。

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この「民族」をめぐる複雑な多様性についての疑問が、カザフスタンの研修で得られた自身の気付きである。「民族」は誰を包摂し、知らぬ間に誰を排除しうるか、主流の「民族」やその「民族」に十全に同一化できる人々は、その違和感に鈍感である。しかし、その違和感に気づいた時に、わたしたちはどのようにそうした違和感を無視せずに生き、疑問を投げかけ続けることができるのだろう。その疑問は、いかにして聞き取られるのか。こうした問いをこれからも発信し、IHSプログラムにおける多文化共生という言葉の内側においても、疑問を投げかけ続ける必要があるだろう。奇しくも、筆者は帰国後の1月29日、ふぇみ・ゼミという団体が企画した「カザフスタンにおける”異質な現象”としてのフェミニズム運動」に参加し、ジャナール・セケルバエワさんの講義を聞くことが出来た。ジャナールさんは、「フェミニータ」というカザフスタンのクィア・フェミニズム集団の代表の一人である。そこで語られたのは、カザフスタンにおける女性に対する抑圧や、トランスジェンダーやジェンダー・クィア、同性愛への差別の問題であった。わたしたちは、多文化共生という言葉に安住してこうした不和や葛藤の声を決してかき消さず、そこに排除されうる人々がいることを絶えず疑問視し続けなければならない。