「学校における哲学対話」報告 佐藤 理恵子

「学校における哲学対話」報告 佐藤 理恵子

日時:
2019年10月7日
場所:
神奈川県横浜市 富士見丘学園
主催:
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)
教育プロジェクトH「生命のポイエーシスと多文化共生のプラクシス」

<概要>

梶谷真司教授のご指導のもと、ファシリテーター5名とIHSの学生2名が参加。横浜市にある私立富士見丘学園を訪問し、高校1年生80名程度と哲学対話を行った。

<なぜ富士見丘学園で哲学対話を?>

哲学対話とは、子どもたちの思考力を養うために1970年代にアメリカで始まった「子どものための哲学」に由来している。高校の倫理の授業のように哲学者の思想を教えるものではなく、グループで身近な問いについて考え、話をするものだ。梶谷先生は東京大学の「共生のための国際哲学研究センター」において「Philosophy for Everyone(哲学をすべての人に)」というプロジェクトを主宰し、これまでに様々な場所で哲学対話を実践されてきた。その会場は教育現場はもちろんのこと、子育てサークルや農村の会合、さらには婚活パーティーまで多岐にわたっている。特に、都立大山高校で行われた哲学対話の実践は生徒たちの学ぶ意欲や学校の雰囲気に大きな影響を与えたことで、日本経済新聞にも取り上げられ話題となった。

さて、研修で訪れた富士見丘学園は創立90年を越える伝統ある女子校であったが、今年に入り共学化に踏み切った。その大きな変革に際し、教育活動の新たな柱として哲学対話の導入を検討しているとのことである。生徒たちが哲学対話を行うのは、今回が初めてだ。女子生徒が9割程度を占める人間関係の中で、どんな対話が行われるのだろうか。

<哲学対話とはどんなもの?>

まずは梶谷先生が生徒たちに哲学対話について説明を行った。梶谷先生は「哲学とは、分からないことを増やすこと」だと言う。学校のテストでは誰かが用意した問題に答えるが、哲学対話は「自ら問う」、そして、「たくさん問う、問いを問う」力を養うものだ。「問いを問う」というからには、問いにも質があるのだろうか。梶谷先生いわく、抽象的な問いよりも具体的な問いのほうが良いという。例えば、「幸せって何?」という質問には答えにくいが、「何をしてる時が一番幸せ?」と質問されれば答えが出やすいのではないだろうか。

哲学対話は、十数名が輪になり、コミュニケーションボールと呼ばれる柔らかい鞠を投げ合って行われる。発言したい人が手を挙げてボールを受け取り、話し終わったら次の人へ。その際、以下のルールがある。

    1. 何を言ってもいい。
    2. 否定的な発言はしない。
    3. 発言せずに、ただ聞いて考えているだけでもいい。
    4. お互いに問いかけることが大切。
    5. 誰かが言ったことや本に書いてあることではなく、自分の経験に基づいて話す。
    6. 結論が出なくても、話がまとまらなくてもいい。
    7. 分からなくなってもいい。

梶谷先生は、哲学対話では考えが違う人を受け入れることができると語る。私たちは、普段の会話では他者と意見が同じ方が心地よいと感じるもので、人に受け入れられるために相手に合わせて話すことも少なくない。しかし、哲学対話の場では他の意見に対して「どうして違うんだろう?」と興味を持ち、違いがあるからこそ面白いと感じることができるのだ。

<富士見丘学園での哲学対話の様子>

15人程度が集まって6つのグループを作り、いよいよ対話がスタートした。私のグループには生徒の他に、ファシリテーターが一人、富士見丘学園の先生が一人加わった。

まず一人一つずつ問いを紙に書いて出すのだが、生徒の大半は友人の反応が気になってなかなか書けない。「こんな問いを見せたら周りにどう思われるだろうか?」という不安が伝わってくるようだ。時間切れ間際に何とか全員が書きだした。「どうして私はモテないのか?」といった日常の問いから、「なぜ戦争はなくならないのか?」といった広い視点のものまで様々。女子生徒が多いせいか、「なぜ中身より見た目が重視されるのか?」「なぜ女しか出産できないのか?」など、女性にとって切実と思われる問いもちらほら挙がった。結局、グループの多数決により「かわいいとは何か?」について対話を行うこととなった。

テーマが決まっても雰囲気の探り合いは続き、なかなか発言の手が挙がらない。結局先生の隣から順に、ボールを回して意見を言っていく形式に落ち着いた。ボールを持っている間は、誰の助けも借りずに自分の言葉で話す。それに息苦しさを覚えている様子だったが、少しずつ「他人と意見が違ってもいい」という場に慣れてくる。「私はボルダリングの壁についている石がかわいいと思う」という、個性的な意見も飛び出した。隣へ隣へと回っていくだけだったボールが、次第に変則的に動き出す。向かいの生徒に投げる。投げられた生徒が避けて、ボールが床に転がる。別の誰かが拾って対話が続いていく。

実は私は日本語教師の経験が8年ほどあり、目の前で学生が言葉に詰まっているとすぐに助け舟を出してしまいたくなった。しかし、“職業病”をじっとこらえて、生徒たちが話し出すのを待った。質問を投げかけることはしたが、議論をまとめることはしなかった。何度かの短い沈黙を繰り返しながら、次第に生徒たちの関心は「どんな相手に『かわいい』という気持ちを抱くのだろうか?」、そして「自分が『かわいい』と言われたら嬉しいか?」という問いに向かっていった。印象的だったのは、「かわいいと言われても嬉しくない」と発言した生徒が何人かいたことだ。「かわいいと言われて嬉しいと思えるのは自己肯定感が高い人ではないか。私は、かわいいと言われても相手の言葉に裏があると勘ぐってしまうから、喜べない」という生徒の発言には、皆が聞き入っていた。

1時間弱の対話が終わると、一人の生徒が近づいてきて「ありがとうございました」と伏し目がちに言ってくれた。「おしゃれしてかわいいと言われるより、タンクトップを着てかっこいいと言われたい」と発言した女子生徒だった。彼女は普段の人間関係の中では、どんな会話をしていたのだろう。もしかしたら空気を読んで、「かわいい」と言われたら嬉しそうな態度で返したこともあるかもしれない。彼女たちにとって哲学対話が、自らを見つめるきっかけになってくれたらと思う。「なぜかわいいと言われても嬉しくないのか?」、「何と言われたら嬉しいのか?」、「それはどうしてか?」、…。問いの外にも問いは広がっている。その積み重ねは私達と世界との輪郭をしっかりと描き出してくれるはずだ。

<大人の哲学対話との比較>

私は過去に2度、梶谷先生が東大駒場キャンパスで主催したイベントにおいて哲学対話に参加したことがある。2回とも参加者は大人が中心で、基本的には初対面であり、もともと哲学対話に関心を持っていた人も少なくなかった。そのためか、対話が開始してすぐに手が挙がり、ボールの取り合いになるほどに各々が積極的に発言していた。その様子を経験していただけに、富士見丘学園の生徒の消極的な様子には戸惑いやもどかしさを感じた。

しかし考えてみれば、生徒たちは自ら望んだわけではなく、先生の指示で哲学対話に参加している。その上、この対話の後にも同じメンバーで普段の友人関係が続いていくのだ。一般向けのイベントと同じように盛り上がるというほうが無理だろう。思春期の生徒たちにとって、自らの問いを仲間にさらすのは勇気のいることだったと思う。それだけに、対話によって生徒たちの様子が少しずつ変化していったことには意味があると感じた。

<自身の研究との関連>

私は日本語教師の経験に基づき、大学院で「やさしい日本語」に関する研究をしている。「やさしい日本語」とは、外国人をはじめとした言語的マイノリティにも伝わりやすいように工夫された日本語のことであり、ことばのユニバーサルデザインとも呼ばれている。最近では、災害時に簡単な言葉やひらがなで書かれたニュースを目にする機会も多くなっている。

哲学対話の考え方は、「やさしい日本語」に関する研究にも示唆を与えてくれた。哲学対話の場では、お互いに分かる言葉で話さなければ伝わらない。仮に輪の中に子どもや高齢者がいたらどうだろうか。自分の世代にしか馴染みのない言葉や難しい専門用語では伝わらないだろう。梶谷先生は、哲学対話とは自分が普段使っている言葉を見直す、相手に伝わる言葉を見つける場なのだとおっしゃっている。

実際に、私がこれまでに参加した哲学対話のうち1回は、聴覚障がい者の方と一緒にホワイトボードに筆談をする形で行った。声を一切発さずとも活発な話し合いができたことは大きな発見だった。哲学対話の場では、相手に伝わるコミュニケーションが何かを探ることができるのだ。相手の立場に立って自分のことばを見直し、検討する姿勢を、これからも研究を通して問い続けていきたい。