「在日コリアンを知る京都・大阪研修」報告 城 渚紗

「在日コリアンを知る京都・大阪研修」報告 城 渚紗

日時:
2019年7月26日(金)~7月28日(日)
場所:
京都府、大阪府
主催:
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクトH「生命のポイエーシスと多文化共生のプラクシス」

本研修では、在日コリアンの方々が多く居住している地域を中心に訪問し、生活、歴史、コミュニティといった在日コリアンの方々による様々な営みをたどることができた。IHSプログラムに参加して3年目となるが、非常に身近で、なおかつ現在もエスニック/ナショナルレベルでのアイデンティティの問題、国籍・シティズンシップ、日常における差別など、「共生」に関わる様々な議論と深く結びついた存在であるにも関わらず、在日コリアン社会・在日コリアンの方々の営みを、フィールドを通じてたどる研修は初めての参加であった。

h_190726_kyotoosaka_01_01.jpg

すでに、日本にコミュニティを築きあげて100年以上の歴史を持つ在日コリアン社会は、戦前、そして解放後の混乱の中で、政局とそれに伴う環境の変化にその立場を左右されてきた。 “在日コリアン”と一言で述べても、来日と定住の経緯は様々であり、集住地域で生活してきたか、日本人が多数を占める中で生活してきたか、民族学校に通うか否か等、今日置かれている環境もまた多様なものである。今回の研修では、その中でも、戦前から多くの在日コリアンの方が居住している京都・大阪を訪問した。京都では、飯場として利用されていた一帯をもとに形成されたウトロ地区へ訪問し、長年「ウトロを守る会」の活動をされてきた斎藤正樹さんや住民の方にお話を伺った。日本国内では、在日コリアン人口が多い集住地域とされるエリアが多数存在するが、そうした中でもウトロ地区はいささか特別な例であると言えよう。集住地域とされているエリアでは、焼肉・ホルモン焼き、韓国・朝鮮料理屋といった飲食店が立ち並ぶ光景がしばしばみられるが、ウトロ地域はそうした飲食店経営や輸出入業に携わるというよりも、手ずからの住居づくりと住民コミュニティが形成されていることが印象深かった。

h_190726_kyotoosaka_01_02.jpg

h_190726_kyotoosaka_01_03.jpg

飯場の区画を再利用する形で形成された住宅街は、土地所有権の問題とも相まって、通常行政が提供しているインフラサービスの管轄外に置かれていた。水道は後年になって水道管が引かれたが、すべての住宅が公共サービスを提供されたわけではなく、ガスに至っては現在もプロパンガスが利用されている。こうしたインフラの問題を解決しようとする取り組みは、住民の高齢化や立ち退き問題、加えて近年、住民が入居するマンション型の住宅が居住権を守るための苦肉の策として設置されたこともあり、進展していない。ウトロ地区は、住宅街としての集住地域であり、こうした集住形態を背景に発展した密接なコミュニティとしての機能に大きな特徴がある。このため、住民の権利を守るためにマンションが建てられたことで住民の居住権を守る運動に一応の決着がついたものの、集落形成にも似た形でのコミュニティの維持という点で課題が残ると言えよう。戦前、飛行場建設の労働者とその家族が寝泊まりした飯場を中心に形成されたウトロ地区は、結局のところ、土地の所有をめぐる問題によってそこに住まう人が翻弄されてきたとも見ることができよう。

h_190726_kyotoosaka_01_04.jpg

研修2日目には、在日1世の実業家である鄭詔文氏が収集したコレクションを中心として設立された高麗美術館を訪問した。こじんまりとしたたたずまいの美術館の中には、貴重な美術品が保存されており、朝鮮時代に王族が使用していた調度品や、中には朝鮮開化派であった金玉均自筆の書も展示されていた。現オーナーである鄭喜斗さんには現地で丁寧にご案内いただき、展示品の説明から美術館設立の経緯、また、鄭さんご自身が在日コリアンとして直面した問題や様々なご経験についてもお話をうかがうことができた。現在も課題が多く残されているが、鄭さんが青年期を過ごされたころの日本は、今以上に結婚や就職の面で根強い差別と偏見が残る時代であった。また、鄭さんのお父上である鄭詔文氏が美術品の収集に尽力した時代というのは、美術や芸術といったものに財を投じることが、「理解を得る」という面においても、探し出すという意味でも、今よりもずっと難しい時代であったことは想像に難くない。そうした中で、帰る間もなく分断されてしまった祖国の統一を願いながら、お父上が日本に散逸する朝鮮半島の美術品を収集してようやく誕生した高麗美術館は、鄭喜斗さんの言葉をお借りするならば、「在日の歴史」が込められた場所であるとも言えよう。ただ、非常に残念ながら、高麗美術館はその貴重な美術品が盗難にあってしまった過去がある。現オーナーである鄭さんの必死の努力により、回収することのできた美術品もあったが、未だ手元に戻らない品もあるという。また、日本にある朝鮮半島に所縁の美術品はいまだ数多く散逸している。残りの美術品が鄭さんと美術館の元へ戻ることを願いつつ、また、新たに貴重な美術品との出会いがあることを心から祈念し、いずれよい知らせとともに美術館を再訪したいと思う。

h_190726_kyotoosaka_01_05.jpg
h_190726_kyotoosaka_01_06.jpg

高麗美術館を後にして大阪に移動し、翌日は猪飼野・鶴橋のコリアン・タウンを見学させていただいた。現地では、在日コリアンに関する貴重な資料や書籍を集めたセッパラム文庫を運営している藤井幸之助さんを中心とした運営メンバーの方々に非常にお世話になった。鶴橋のコリアン・タウンは現在でも有名だが、もともとは鶴橋駅から徒歩15分ほどの場所に位置する「御幸通り商店街」を中心としたエリアが、オールド・カマーの方々が多く居住する地域であり、商店街では日用品から冠婚葬祭・祭祀に必要な品まで網羅し、その生活を支えていた。以前は猪飼野とよばれたこの地域は、現在では地名が変更されており、新しい地名で住所が表記されている。案内をしてくださった藤井さん曰く、「猪飼野」の地名がみられるのは、商店街の古い住宅にたった一軒だけ、あるいは神社の名称として残されている程度とのことであった。現在の御幸通り商店街は、事前学習でみた90年代や80年代の素朴な映像とは異なり、韓国製品や韓国で流行中のスナックなどが販売され、近隣に住むお年寄りや家族連れに限らず、異国情緒と流行を求める若い世代が訪れるなど、大変な賑わいをみせていた。

h_190726_kyotoosaka_01_07.jpg

こうした賑やかな通りを離れると、すぐ住宅街へとつながっており、その中には朝鮮初級学校と、地元の公立校が並んでいた。朝鮮学校のすぐ近くにある地元の公立小学校は、そこに通う児童の多くが在日コリアンの家庭の子どもたちであり、民族学級も開かれている。通常の公立学校と比較すれば、そこに通う児童らのバックグラウンドに配慮していると言えるかもしれないが、その実、それが十分な取り組みかといえば、課題は山積していると言えよう。幸い、この日の午後、卒業生の方に少しお話を聞く機会ができた。その方によれば、確かに多くの児童が在日コリアンの家庭の子どもたちであり、民族学級などもあるが、日本の公立学校である以上、構成比で日本人児童がマイノリティであったとしてもそこで優先されるのは「日本」である、というお話であった。そこに通いながらも、自分のルーツを話すことへの抵抗感はぬぐえず、アイデンティティへの戸惑いを避けることもできず、その方は同じバックグラウンドを持つ人とのつながりを求めて、朝鮮学校コミュニティへと参加するに至ったという。これを「仕方のないこと」で済ませるには、あまりにもやり切れないような、いたたまれない気持ちになった。当事者に対して、「日本に住んでいるのだから」と、「割り切ること」を要求するのは、往々にして顔の見えない関係にある人々なのかもしれない。

たった3日間の研修ではあったが、非常に濃密で、様々なことに思いを巡らせた3日間であった。同時に、多文化共生、という単語以前に「共生」とは何か、統合人間学以前に「人間」とは何か、IHSプログラムに参加する1人として自問自答せずにはいられなかった。確かにそこにいる人々を、一瞥しただけでは見えない存在にしてしまったのは紛れもなく多数派であろう。