シャンカル・ヴェンカテーシュワラン氏ワークショップ
および「シャンカル氏×山田せつ子氏 身体の対話」 報告 葛原 敦嘉

シャンカル・ヴェンカテーシュワラン氏ワークショップ
および「シャンカル氏×山田せつ子氏 身体の対話」 報告
葛原 敦嘉

日時
  • 2019年1月22日(火):10:00 - 18:00 ワークショップ
  • 2019年1月26日(土):14:00 - 17:00 「身体の対話」
場所
東京大学駒場キャンパス コミュニケーションプラザ
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)教育プロジェクトH「生命のポイエーシスと多文化共生のプラクシス」

本実習は、秋学期集中授業「多文化共生・統合人間学実験実習Ⅱ」の一環として、シャンカル・ヴェンカテーシュワラン氏(演出家・劇団主宰)をお招きしたワークショップと、シャンカル氏×山田せつ子氏(ダンサー・コレオグラファー)の対話に参加する授業を行った。シャンカル・ヴェンカテーシュワラン氏はインド出身の気鋭の演出家であり、ケーララ州国際演劇祭の芸術監督をはじめ、主宰するカンパニー「シアター・ルーツ&ウィングス」を率いて、世界各地で上演を行っている。

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[ワークショップ]1月23日(火)コミュニケーションプラザ 身体運動実習室

全日、演劇的なアプローチを使いながら、イメージをどのように身体へと落とし込むかということを中心にワークショップを行った。午前中はウォームアップも兼ねて、それぞれが体を動かすことから始めた。全員で手を繋いで大きな円を作り、それぞれが中央に収縮し、腕をくぐらせたり、回転させたりすることによって様々な「結び目」を作った。絡み合った塊となった私たちにシャンカル氏は、一つ一つの結び目を丁寧に解くようにと指示を出した。何も考えずに絡まり合うのは簡単でも、それを最初の状況に戻していくという作業は非常に複雑で、全員が頭を悩ませながら、時間をかけて結び目をほどいていった。自身の身体像をイメージする際、わたしたちは自律した個人としての身体を想定するが、このワークではそうした身体像を超えて、新しい有機的な共同体をイメージする可能性を感じた。輪になって手を繋ぐわたしたちと、絡まり合って複雑に接触し合ったわたしたちとの、差異あるいは同一性を意識してほしかったのかもしれない。シャンカル氏はこうした目的を定義することはしなかったため個人的な感想に過ぎないが、引き続き自己と他者との関係性を思考するためのワークが繰り広げられる。

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次に、体の中心を意識しながら呼吸の流れを感じるワークを行った。参加者全員で大きな円を作り、吸う呼吸と吐く呼吸に合わせて手を連動させながら、同時に全員の呼吸と意識を同調させていくといった挑戦である。次に、その円をほどいて、それぞれが他の参加者を数人視界に入れることをルールとしながらも、思い思いの方向を向いて同様のワークを行った。シャンカル氏は、重要なのは誰かがリーダーやペースメーカーとしての役割を果たすことではなく、全員の呼吸を意識しながらそれを感じ取ることであると述べていた。「多様性」を考える上でも重要な問題がここにも発生しているだろう。身体の解放を求めたドイツ表現主義舞踊がナチス政権下で政治的な身体活動に取り込まれてしまったように、それぞれの行動に対して応答し、時に調和することが求められる活動は、常に身体を一定の方向に「訓練」してしまう可能性がある。あるいはそうした調和が誰の意図によって与えられた状態なのか、そしてその調和に至るまでに、排除される存在や側面はないのか? という問いを設定することによって、共生を考える上でよく議論される「同化」か「統合」かという問題がここにも生じうると感じた。すなわち肯定的側面には他者を尊重することを学び自己の積極的なコミットメントを誘発する等の点が挙げられるが、否定的側面としては全体主義や同化を重んじる雰囲気に傾倒する可能性もある。もちろんこうした活動の否定的な側面のみを見るのではなく、より力強く社会を揺り動かし、他者との関わりや調和をもたらす手段としての原動力を秘めているという事実にも目を向けるべきである。しかし、その力を誰がどのように使用するかということには必ず注意しなければならないだろう。

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次に私たちが取り組んだのは、指先で他人の体の一部に様々な質感で触れるというワークである。もちろん相手に合意を取ってから他者の体に触れ、そして自分たちも触れられる。このワークで得た感覚をもとに、シャンカル氏は動きを作ることを提案した。他者の一部が自分の一部に触れ、なおかつ触れ合いが無くなった後に感じる自身の中心との関係を探りながら、それぞれが感じた感覚をもとに、体を動かし、興味深い動きを発見すればそれを反復して確かめる。そうした作業の後に、五つほど動きを作って全員が発表を行った。発表のあとに、シャンカル氏はそうした動きをすることによって「イメージ」は生まれてくるかという問いを投げかけ、もう一度新たな動きを創作し発表をおこなった。二回目の発表を終えたのち、シャンカル氏は「一度目は抽象的な動きだったが、二度目はイメージを意識することによってより説明的になっていた」とコメントし、説明的な動きは避け、イメージと抽象さの狭間で動きを表現することがよいのではないかという提案をして、午前中のワークショップは終わった。

午後からは、先ほどのワークを発展させて、俳句や短歌を取り入れて動きの創作を行った。俳句を取り入れるといっても、身体を筆にしてその句の文字を書くのでも、情景や感情を表現することを推奨するものではなかった。最初に着目したのは音である。これは後に紹介する山田せつ子氏との対話にも関連すると言えるだろうが、音は抽象的でありながら、お互いの文脈には左右されない。シャンカル氏とわたしたちが共有可能なテーマやイメージを持つことを目的としていたのかもしれない。最初に句の音を母音と子音に区切りながら、それぞれが持つ音のイメージを体で探りながら動きと交渉していく。そうして完成した動きに対して、自らの表現やイメージを追加していくような作業を行った。

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ワークを通して興味深かったことは、シャンカル氏が強調する「イメージ」という言葉である。その語がどういったものを指しているのか、あるいは指すべきかということを議論することはしなかったが、個人的にはそれが演劇的・作品創造的思考やプロセスであるように感じた。踊ることについてシャンカル氏はイメージを説明的である/でない、という二項対立で語ったが、身体を動かす本人にとってはその二項対立だけでは語りえない「イメージ」とのかかわり方が存在するだろう。なぜなら踊りには他者に対して、自己を表現するという目的にもまして、「イメージ」と戯れ、自己の快楽の追求や音楽や環境への没入といった点も非常に重要であると考えるからである。しかしながら、目の前の身体を記号化し理解することを訓練されてきた人々にとっては、自己のイメージを説明しなければならないという観念が存在するのかもしれない。なぜ私たちは「説明的」になってはいけないのか、そうした議論を積み重ねることによって、より異なった形で、自己の身体とそれを目の当たりにする他者へのかかわり方が生まれるかもしれない。

[身体の対話]1月26日(土)コミュニケーションプラザ 舞台芸術実習室

こちらの企画では、わたしたちは動くことや積極的な場への参加は行わず、主にシャンカル氏とダンサーの山田せつ子氏との「対話」のプロセスを公開するという形式で行われた。はじめにシャンカル氏が朗読するマラヤラム語(南インドケーララ州周辺の言語)の詩に、言語内容を理解できない山田氏が、身体を中心とした応答を即興で行うといったものだった。二度目は両者が短い会話や相談を交わしたのちに、もう一度即興を行った。三度目にはシャンカル氏が詩の内容や文脈についての説明を行い、そして山田氏が応答をする。終了後に会場からの質問などに答えるという流れである。

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山田氏が即興的に披露した身体の在り方は目を見張るものがあり、大変貴重な体験をすることが出来たが、同時にこの行為の細部や、構成とその表し方などについて議論の可能性を感じた。具体的には、こうした試みを「対話」と呼んでしまうことへの疑問である。行為自体の質に関しては先ほども述べた通り、豊かさにあふれたものであったが、これを「対話」と呼ぶべきなのだろうか。とりわけ山田氏は英語中心主義の世界から他言語の響きに注目し、こうしたやりとりを試みたそうだが、純粋な言語や既存の文脈に依拠しない対話の在り方を追究するという点だけに注目するならば、シャンカル氏が使用した「詩」という素材が最適であったのかは疑問が残る。常に可変的である山田氏の身体の即興的な動きに対して、「詩」は固定的な側面を持っているからである。もちろん、こうしたやり取りにおいて、刻一刻と変化する空間や二人の間に生じている何らかの相互作用が存在することは全く否定しないが、「対話」という定義を用いて表現するには少し違和感を覚えた。もちろん、詩と解釈を結ぶ関係性が言語という社会構築物に大きく依存しているにもかかわらず様々な「読み」が可能なように、山田氏の身体が訓練という構築的な文脈を経て、シャンカル氏の詩や空間全体の影響をも受けていることを否定するわけではない。しかし即興性という側面に注目すれば、「対話」という二人の意図により丁寧に寄り添った行為が可能になったかもしれない。

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もう一点注目すべきであると感じた点は、主体性を誰がどのようにどの程度の割合で引き受けるべきか、ということである。山田氏自身が「ダンサーとしての血が騒いでしまった」と述べていたが、参加者に対しても「対話」という形式を打ち出しながらも、この場にいた参加者をある種のパフォーマンスの観客としての立場に配置する構造があったことは否めない。ここで述べた構造とは、観客と演者を分断する見えない壁によってつくられた「視られずして視る」状態を指す。あるいは「視ずして視られる」とも言えるかもしれない。実際に山田氏も「参加者が実際に踊り出して混沌状態になっても困る」というような旨を最初に述べていた。こうした構造への注意無くして、「対話」と呼ぶことは果たして今回の企画の趣旨に沿っていたかは疑問である。その場にいる全員が同じ主体性を帯びるべきだとまでは主張しない。しかし少なくとも「参加者」の行為能力が制限されない仕組みがあってこそ「対話」と呼ぶべきではないだろうか。

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最後にシャンカル氏と山田氏の「身体の対話」構造的な力の作用についても注目したい。ダンスないし、鍛えられた身体を見るための場所を作り出す舞台芸術という構造の力によって、山田氏の身体はシャンカル氏の朗読する身体にも増して、注目を集めていたように思う。第一回目ではシャンカル氏に集まっていた視線が、山田氏がより可視的に「踊り」を始めたとき、シャンカル氏はむしろ隔たれた空間の中で見ることを強化する立場に加わっているように見えた。それがテキストのもつ作用なのか、演劇性によるものなのか、あるいは舞台芸術の構造、そしてシャンカル氏が選定した詩のヘテロセクシュアルな関係性や「母」という幻想の本質化を想起させる内容によるものなのかは、判断することは出来ない。そしてそれを一概に取りたてて糾弾することは本意ではない。しかし「対話」において誰がその場を掌握し、何がそれを支えているのか議論することは、多様な声が黙殺されない場を創造するためには必要だろう。

今回の「対話」を通して、踊ることの主体性や「ダンサー」という存在が視線を引き受けることの快楽と、その背景に働く様々な関係性をより細かく着目し議論することが、多様性を考える上で重要であると考え報告を行った。