長野県南相木での中学生・地域住民の交流のための哲学対話イベント 報告 蒔野 真彩

長野県南相木での中学生・地域住民の交流のための哲学対話イベント 報告 蒔野 真彩

日時
2018年12月3日(月)〜4日(火)
場所
長野県南佐久郡南相木村
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクトH「生命のポイエーシスと多文化共生のプラクシス」

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はじめに.

本研修は、過疎化対策として、教育をどのように位置づけるか、そのために学校とコミュニティの関係をどのように変えていくのかのケーススタディとして実施された。今回の研修先である長野県南相木村は、人口約1000人の小さな村で、近年過疎化が問題視されている。今回は、そのような問題に向き合うために、まずは村民同士が話し合える関係性を築くことを目的として哲学対話が実施された。このレポートでは、私が本研修を通して感じた「一緒に考えること・食べること」の意味について述べる。

1.一緒に考えること

まず、本研修のメインイベントである哲学対話への参加を振り返りながら、「一緒に考えること」について述べる。
今回、哲学対話が行われたのは、村役場の近くにある公民館である。この公民館では日頃から地元のコーラスグループやダンスグループなど、様々な活動が行われている。今回はその公民館の体育館を使って、夕方から約1時間半で哲学対話が行われた。対話には、小学生から80歳を越えたお年寄りまで、幅広い年齢層の方が参加しており、地元の方だけではなく、東大関係者や取材記者なども輪に加わった。そして、およそ40人の人々が12、3人の3グループに分かれて対話を行った。

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今回の対話のテーマとして選ばれたのは、「この村についてどう思うか」という問いであった。私の参加したグループでは、主に南相木村の過疎について心配する発言とともに、村の自然の豊かさについての発言が多く見られた。例えば、村には鹿や熊、鳥などのたくさんの動物が出現することや、秋には松茸がたくさん採れること、そして空気が綺麗で夜は星がよく見えることなどが挙げられた。その中で印象的であったのは、それらの発言が独立して出てくるものではなく、対話の中で相互に影響しあって人々の中から徐々に引き出されていったことである。はじめは過疎の問題についてばかりがあげられ、暗い雰囲気であった対話が、時間が経つにつれて、村の良いところを見つけ出していく様子が面白かった。

これまでにも、私は何回か哲学対話に参加した経験があるが、対話に参加する度に感じるのは、一人で考えることと、一緒に考えることの違いである。対話を通して誰かと一緒に考えることで、自分の考えを相対化することができ、一人では思いつかなかったような考えに至るという経験を何度もしてきた。今回は特に、村民というあらかじめ前提を共有しているコミュニティに、新たに対話という形式を持ち込むことで、これまであえて言葉にして来なかった考えや思いを、人々が言語化していく様子を見ることができた。

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このように、対話を通じて考えや思いを共有していくことは、世界の見方を「わたし」から「わたしたち」へと広げていく過程であると考えられる。ある物事に対して、同じ見方を共有すること、もしくは異なる見方があることを知ることは、自分と似たような人々だけで構成されている世界に、新たな見方をもたらすものである。村について考えるということはまさに、「わたしたち」について考えることであり、そのような意味で「一緒に考える」哲学対話は村のコミュニティ作りに大きな役割を果たす可能性があると考えられる。

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2.一緒に食べること

次に、哲学対話のあとに行われた「つけものを食べる会」の経験から、「一緒に食べること」について述べる。

今回のイベントでは、対話のあとにつけものをみんなで持ち寄る食事会が開催された。南相木村は、つけものの村と呼んでも過言ではないほど、家庭ごとに様々なつけものを作っており、食事会には村の方々が作った色とりどりのつけものが10種類以上も持ち寄られた。それらは、白米とつけものだけでも十分に食事を楽しめてしまうほど様々な味付けがされていて、たくあんと福神漬けくらいしか食べたことのない私には、とても衝撃的であった。また、つけものだけではなく、食事会には役場が所有している山で採れたたくさんの松茸が提供され、みんなで豪華に松茸ご飯を楽しんだ。

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そして食事の最中には、このつけものは誰が作ったのか、どうやって作るのか、どうしてこの食材を選んだのかなど、自然と食べ物を関する会話が弾んでいた。 そこから私は、一緒に食事をすることで、目の前の食べ物とそこに込められた想いや文化に対して人々はより興味を持つことを感じた。食には、その地域や家庭のアイデンティティが表れており、それを通じてその地域の歴史や産業、そして人々の暮らしを知ることができる。今回も、つけものにまつわる様々なエピソードを通じて、南相木村の人々の暮らしの一部を伺うことができた。

また、この食事会を企画した梶谷先生が述べるように、「食べる」という行為は、年齢や性別に関係なく誰もが参加できる行為であることを実感した。村の話し合いや教育現場では、女性やお年寄りが参加できない場合があるが、食事の場においては、そのような制約なしに誰もが参加し、場を共有することができる。また、「食べる」ことを目的として場を開くことで、「話し合う」ことが前景化しないため、自然と会話が弾むというメリットも感じられた。このように、「一緒に食べること」は、食を通じて人々の暮らしを知るきっかけになるとともに、誰もが参加できる場を作り、そこから自然なコミュニケーションを生む効果があると言える。

おわりに.

考えることも食べることも、日頃から私たちが行っている行為ではあるが、普段は集まらない人々と「一緒に」行うことで、それは新たな意味をもち始める。南相木村で哲学対話イベントが行われたのは今年が初めてではあるが、今後「一緒に考える」このような場が継続的に開かれることによってどのように村が変わっていくのか、もしくは変わらないのか、ぜひまた南相木村を訪れたいと思う。

報告日:2018年12月24日