東大LAPとの合同研修「都市生活誌フィールドワーク実習」 報告 金 希妍

東大LAPとの合同研修「都市生活誌フィールドワーク実習」 報告 金 希妍

日時
2018年11月15日(木)〜18日(日)
場所
東京都深川森下周辺
主催
東京大学リベラルアーツ・プログラム(LAP)
共催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクトH「生命のポイエーシスと多文化共生のプラクシス」

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フィールドワークの概要および、調査について

本フィールドワークは東京大学リベラルアーツ・プログラム主催の企画であり、東京大学・南京大学・日越大学の3大学が共同に行った調査である。今回の企画では東京大学から7名、南京大学から10名、そして日越大学から4名が参加し、4日間にわたる交流および調査を行った。

今回のイベントの参加にあたり、私が興味を持った理由は二つある。一つは私自身の研究にも関係ある「フィールドワーク実習」が体験できるということ、もう一つは国際交流を通じて自分の視野を広げられると思ったからである。特に、下町研究は私自身が日頃の生活の中でも密接に関わっているテーマであり、様々な町の祭りや行事などに参加していたため、今回のフィールドワークには高い関心を抱いていた。

見知らぬ場所でのフィールドワークを行うのは今回が初めてであり、調査当日までどこから情報を得て、どこから調査を始めたがいいのか、全く手がかりもない状態におかれていたが、森下の町に住んでいる方々のご協力を頂き、無事に今回のフィールドワークを終えることができた。まずは三日間に渡るフィールドワーク調査の流れと内容を振り返っておきたい。

フィールドワーク1日目

私たちの班は森下駅付近を拠点にフィールドワークを行なった。森下は「カレーパン」の発祥地であり、カレーパンをひとつのテーマに研修を行うことを考えていたが、実際に森下の方々のお話を伺ううちに、結局様々な視点から「森下」を考えた方がいいと言う結論に至った。

私たちが調査したのは、森下駅のA1口を出て左方面にある川辺と接した地域である。商店の数は比較的少なく、マンションなどが立ち並ぶベットタウンといった様子だ。平日の午前という時間帯であったため、少ない商店のほとんどが閉まっており、長く歩いてようやく「彦九郎」という和菓子屋に行き当たった。そこで「この町のことを一番知っている人」を尋ねると、「隣の床屋さん!」と即答された。そうした経緯で、私たちは運よく牧田さんとお会いすることになった。

カット・サロン・マキタにて

牧田佳一さん(82)は、この森下の町で生まれ育ち、カット・サロン・マキタの3代目として床屋さんを経営している。平日の午前に突然訪れ「町について教えてください」とお願いした私たちに対して、牧田さんは快く、小さい頃の町の風景や戦時中の森下の姿、そして戦後から今に至るまでの森下の変化などについて教えてくださった。「新大橋」をめぐる戦時中のエピソードなど、貴重な町の歴史を知ることができたが、後から、こうした調査においては、町の歴史を直接尋ねるよりも、むしろ調査に協力してくださった方のライフヒストリーを通じて話を聞くことが重要である、と学んだ。確かに、牧田さんは「うーん。町のことならなんでも話せるけど、何をどう知りたいのか、具体的に話してくれないと…」とときおり困っている模様であった。牧田さんのライフヒストリーを通じて町を思い出していただく方が、より有機的で、詳細な記憶を引き出しやすいのだ。

先生からのアドバイス

そのような指摘を、フィールドワーク後に菊池駅で行われた報告会にて、白先生から受けることになった。私たちはフィールドワークの成果に自信があったが、白先生は厳しく、「物語の土台は作られているものの、その中身が全く入っていない」、「このままだと、単なる楽しい旅行話にすぎない」とコメントされた。「フィールドワークでしか得られないものを探すのが今回のフィールドワークの目的」であり、「インターネットや本などでわかる情報ではないもの」を探す必要がある。私たちのチームは翌日改めてマキタ・サロンを訪ね、次はライフワークを通じてお話を伺うことにした。

フィールドワーク2日目

2日目、土曜日であるにも関わらず、牧田さんは仕事をされながら快く私たちを迎えてくださり、戦時中の思い出などライフヒストリー詳しく話してくださった。以下は牧田さんとのインタビューをまとめたものである。

牧田さんの記憶、そして森下

牧田さんは森下で生まれ育った。戦後しばらくの間は実家を離れ、神田の親戚の家で暮らした。高校卒業後、実家の床屋の三代目店主として家業を継いだ。私たちがお店に入った時一緒お会いした娘さんは、現在4代目として牧田さんと一緒にお店を経営している。

戦前まで森下は活気のある町であり、商店街を中心に町の人々でお店が溢れていたという。子供の数も多く、祝日はとても賑わった。1945年3月9日の東京大空襲により町は一変する。

1945年3月9日、町は焼かれた。牧田さんの家から遠く離れていたところの屋敷がまず燃え始め、牧田さん家族は近所の新大橋へと逃げた。新大橋に逃げた理由は、1923年起きた関東大震災の際、牧田さんのお爺さんが家族と新大橋に避難し助かったからであるという。当時牧田さんはまだ小学校2年生だった。

避難する前に、牧田さんは自分の所持品などを家の前に掘っておいた防空壕の中に入れ、氷袋で囲んだそうだ。本当に大事なものだけ最小限身につけ避難した牧田さんは、空襲が一旦落ちつき、家に戻った時、防空壕に保管した物が全て焼かれてしまい、痕跡すら残っていなかったのを見て絶望したという。

空撃が続く間、牧田さん家族は全員無事に新大橋に避難した。頭にかぶっていた掻巻は、避難の途中で火がつき、捨てざるを得えなったという。その日、幼い牧田さんの目の前に広がったのは炎だけだった。爆撃の音は聞こえず、ひたすらあちこちで炎が逆巻いていた(牧田さん曰く、森下に落ちた爆弾はほとんどが音を出さないタイプの手榴弾だった可能性が高いという)。町のほとんどの住民が新大橋に避難したため、橋の上は避難した人たちで隙間なく溢れていた。何人かの人が仕方なく他の場所に避難して行く姿を牧田さんは目撃したが、それが彼らを見た最後の姿になったそうだ。

命は助かったものの、背後に広がる森下の町はまさに生き地獄であった。何も残らず、炎に飲み込まれてしまっていた。家の方向へ目を通してみたが、木材で建てられた牧田さんのお家も炎に飲み込まれ、何も残っていなかった。牧田さんがそこで感じたのは恐怖だけであった。まだ子供であったため、ただただ恐ろしかったというイメージ以外に何も思い浮かばなくなった、とインタビューで牧田さんは語った。

橋の上でどれくらいの時間を過ごしたか、牧田さんは覚えていないという。無事に新大橋に避難したあとも災難に見舞われた。当時まだ幼かった妹さんが風に飛ばされ、橋の上から落ちてしまったのである。牧田さんのお母さんが妹さんを助けに橋の下に降りた。幸い、妹さんが落ちたのは橋の骨格を支えている鉄板の上であったため、命は助かったものの、脚を骨折していた。空襲のなかすぐに治療することができず、妹さんは痛みを堪えながら攻撃が収まるまで長時間待たねばならなかった。そのせいか、脚が完治するのに、かなり長い時間を要し、妹さんは入院、そして通院を繰り返したという。お見舞いで病院を訪ねた牧田さんは、病院にいる他の患者たちをみて衝撃を受けたという。そこには、全身が焼かれた人、身体の一部を失った人がたくさんいた。地獄が地上に現れたような残酷な光景であった。

空襲後、牧田さんはしばらく神田に住んでいる親戚の家で住んでいた。町の復興は驚くほど早く進んだため、すぐに普段の生活に戻れたそうだ。とはいえ、基本的な生活を維持するインフラが整備されるまでには少し時間がかかった。例えばトイレは男女問わず、マンホールや窪みのようなもので済ませるしかなかったそうだ。日常が戻ったかのようだったが、学校では、資源不足によって給食が出ない日々が長く続いた。そうした苦境にもめげることなく、牧田さんは学業に励んだ。

小学校と中学校を卒業した牧田さんは、その後、日比谷高校に進学。大学進学も目指したが、家計が厳しかったため、夢を諦めて父親の床屋さんを継いで現在に至る。牧田さんは4代目である娘さんと共にお店を経営しながら、日々を過ごしている。おそらく4代目でお店は最後になるかもしれない、と牧田さんと娘さんは言っていた。「孫がお店を継いでくれるか正直わからないしね」と、少し寂しそうな声で牧田さんが言った。

炎に飲み込まれた日から60年前のあの日から、町は少しずつ衰えていった。徐々に人口が減り、今や昔から住む人はほとんどいなくなった。かつてのような、町の住民たちによる共生関係は見られなくなったという。とはいえ、常連さんたちのおかげで、今日もカット・サロン・マキタは店を開いてお客さんを待っている。店の外は、今日も平和だ。何も起こらなさそうな、平和なままである。

報告会、そして懇親会

最終日の午後、私たちのチームは以上の内容に基づき、フィールドワークの成果を発表した。他の6チームがどのようなテーマで調査をしていたかについても、報告会ではじめて知ることになったが、「同じ地域を調査したのに、みんなこれほど異なる視点からこの町を見ていたんだ」と驚きをもって実感できた。発表後、ゲストや担当の先生そして学生の皆から質問を受け、それぞれ対応する形でコメントや議論を行い、報告会を終えた。その後の懇親会でも、各先生からより詳しいアドバイスを聞くことができ、今後のフィールドワークで役立ちそうな様々な調査方法、アプローチを学んだ。他のチームの学生とも、あらためてフィールドワークの様子を聞き、とても充実した交流をすることができた。

最後に

四日間に渡る今回の合同研修を通して私が触れたのは、かつて森下の地に存在し、現在も存在している様々な記憶の塊であった。詳しく報告を行った牧田さんのインタビュー以外にも、私たちは「そば処天狗」さんや町の中で道案内をしてくれた住民の方々など、たくさんの方々に出会い話を伺った。それは、彼らの森下についての記憶と感情、思い出などに触れさせていただく経験だった。それは、インターネットで「森下」を検索すると出てくる様々な情報とは違う種類の情報である。小説やテレビなどで聞いていた、私とは関係のない、まるで小説のような物語が、実は目には見えないが、我々とともにいまも生きている、生々しい「事実」であることを、今回のフィールドワークを通じて確認することができた。そして、これらの生きた「事実」に触れることで、それまで自分と関係のない存在であると思っていたものが、自分と繋がってくる過程を、はじめて経験することが出来た。今回のフィールドワークのテーマである「ある/いるのに、見ない/見えないもの」が、少しだけ自分に触れる機会を私たちは持つことができたのである。

私たちの身の周りにはも、私たちが日頃の生活でまった気がつかないものがたくさん存在している。それらの情報やものと触れ合うことで、私たちは気がつかず存在していたものを少しだけ認識することができる。そして、それは外にある存在を認識するというだけでなく、最終的にはその場所に住んでいる、私たち自身への理解にもつながるのではないか。

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報告日:2018年12月7日