2018年度・都立高校での教育現場をめぐる研修報告 佐藤 寛紀

日時
2018年4月12日(木)
場所
都立雪谷高校
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクトH「生命のポイエーシスと多文化共生のプラクシス」

研修概要

都立高校での教育現場をめぐる研修の一環として、一般社団法人「子どもの成長と環境を考える会」並びに本学総合文化研究科梶谷真司教授が主催し、東京都立雪谷高等学校(以下、都立雪谷高校)において行われた哲学対話に参加した。これまでにもIHSが参加した哲学対話は行われており、それら先行の研修に関する報告はIHSのWebページ上で公開されている通りである。今回の哲学対話は、都立雪谷高校による平成30年度に入学した新1年生向けオリエンテーションの中で行われた。尚、今回は都立雪谷高校での哲学対話と並行して、東京都立八王子東高等学校、同都立大山高等学校においても、それぞれ同年4月9日、16日に同主催の下で哲学対話が行われたが、本報告書は都立雪谷高校における研修とそれに先行して行われた哲学対話についての講習会に関するものである。今回の哲学対話には、企画運営の補助役(ファシリテーター、以下ファシリ)として、主に哲学専攻の学部生・院生とIHS所属学生が参加した。

まず、都立雪谷高校での哲学対話に先行し、ファシリとして協力する学生向けに事前講習会が同年4月4日(水)に行われた。本講習会では、梶谷教授から哲学対話を実施するようになった経緯とこれまでの状況についての説明があった後、哲学対話で行うアクティヴィティ(詳細は後述)の講習を行った。

哲学対話当日は、まず始めに梶谷教授から参加した雪谷高校新一年生並びに同校教師らに「哲学」とは何か、またなぜそれが重要なのかについての小講義と、本企画についての説明が行われた。その後、一つ当たり15人程度のグループに高校生、教師らが混じる形でなり、グループ一つにつきファシリが一人ずつ配属された。当日行われたアクティヴィティは以下の2つである。

  1. 質問ゲーム:15人のグループがさらに5人程度の小グループに分かれる。小グループごとに一人の「回答者」を決め、その他は「質問者」になる。回答者はまず、決められた質問(今回の場合は「生まれ変わったら何になりたいか」)に答える。その後、質問者が一人ずつ順番に回答者のそれまでの答えに関連した質問をしていく。
  2. 哲学対話:15人のグループが一つの輪になる。一人1つずつ全員が「問い」のお題を考え、発表し、その中の一つを選ぶ(今回は多数決で決定した)。そしてその問いに対して挙手による自主制で自らの意見を述べる。この際、挙手をし、自分の番になるまで、意見を述べたりしてはいけない、すなわち、他者が意見を述べるのを遮ってはならない。尚、このアクティヴィティの本質は「問う」・「哲学する」ことにあり、グループで一つの答えを出す、もしくは他者を論破することが目的ではない。

ファシリは各々の配属先のグループでこれらのアクティヴィティの進行を行った。

哲学対話終了後、「子どもの成長と環境を考える会」の方、梶谷教授並びにファシリで事後反省会を同日、雪谷高校で行った。事後反省会では、ファシリが各々のグループでの対話の様子、またそこから見えてくる問題点・改善点を共有した。

考察

今回の研修での体験に関して、筆者がここで取り上げたいのは、後半に行われた哲学対話で観た生徒の様子である。それは、生徒の「問い」への回答が、自身の社会的立場に即し、その立場を念頭に置いた回答が多かったという状況である。筆者の担当したグループの対話の題は「なぜ野球部にはハゲ(坊主頭の意味)が多いのか」であった。まず、野球部に所属している生徒は坊主頭の意味を説明し、利点を主張した。そして、他の生徒らはそれ以外での利点をお互いに探り合うように、「坊主は〜な利点があると思う」という意見が続いた。すなわち、しばらくの間、「坊主頭を尊重するために良いところを皆で探そう」という意見交換会のような体裁となった。これは社会生活をする上で重要な「協調性」が強調された行動であったと思われる。また、生徒から第三者的目線での(野球部員と同じ学校で共同生活をする高校生ではなく、一観察者として)、「誰が、なぜ、坊主にすると決めたのか」、「なぜ部員はそれに従うのか」という「問い」と「回答」があまり自発的に起こってこなかったという状況は、生徒らが自身の社会的立場(坊主は肯定されるべきものだ、という思想を持つ学校社会に属している立場)に即した意見を言っていたからではないか、と考えられる。

自身の社会的立場の固定は、現在推進されている自立型学習のように、自立して思考力・思想・教養を育む上で障壁となりうる。自身の社会的立場を固定し、所属する社会のフレームワークに即した思考をするということは、社会の「全体主義的な主観」に沿った思考をするということである。この状況では、まず第一にその「全体主義的な主観」を自身も共有するというプロセスが重要になり、いわゆる「受動的に教育を受けること」が主体となる。そして、自身の社会的立場が固定されているので、自らの社会(societyに止まらず、身近な物事を含む)や、他の社会、それらを包括する一層上の構造に対して、客観的、メタ的な観測・分析・考察を行うことが難しくなる。つまり、自身の社会的立場の固定から脱するということは、「全体主義的な主観」と「受動的な教育」から距離を置き、帰属社会に囚われない自立した思想・教養を育むことに寄与すると考えられる。筆者が哲学対話のアクティヴィティで見た生徒らの様子は、哲学対話が彼ら・彼女らに社会的立場の固定から脱却した思考を強く求めているプロセスだったと考えられる。このことは哲学対話が結果として自立した思考力・思想・教養を育み、客観的、メタ的な観測・分析・考察を行う能力の発展につながるということを示唆している。

哲学対話のような試みは是非とも学校自身の取り組みとして広まって欲しい。しかし、こうした活動を初等・中等教育機関が自主的に行うのは難しいのかもしれない。我が国の初等・中等教育課程では、教育は生徒が教師から非常に受動的に学習する方式が取られており、生徒は教師に対して受け身の立場になりやすい。したがって、「能動的に『問い』、『答えを探る』」ということを教師が主導で行えば、生徒はそれを(皮肉にも)受動的に行うことになりかねない。また、教育課程における学習方式だけでなく、生徒が属する学校社会の機能が、「能動的に『問い』、『答えを探る』」ことの妨げになるだろう。筆者は6年ぶりに日本の高校生の様子を目の当たりにしたのだが、当たり前のようになされる「気を付け、例」の号令とそれに従属する生徒に違和感を覚えた。筆者は、今回の研修では哲学対話の重要性を学ぶことができたという成果とともに、中等教育から一度離れたことで、新しい観点で日本の中等教育を観察することができたという成果も強調したい。この観察によって筆者は、教師が出した号令に生徒が従う、という教師>生徒の絶対的ピラミッドが持つ機能を再認識できたように思われる。この機能のもとでは生徒は受け身にならざるを得ない。加えて、哲学対話で観た生徒の様子と筆者自身の学校生活経験を基に考察を広げると、生徒内の社会も、生徒の能動性・自主性を抑止する機能を持ち、生徒を受け身にしているように思われる。学級・部活動などを主体とする生徒内の社会では、哲学対話で如実に現れた「強い協調性の要請」、先輩後輩関係、そしてスクールカーストなどの、多様かつ強力な束縛が機能している。この束縛は生徒の行動(思考)の選択肢を制限し、与えられたものから選ばざるを得ないという受け身の態勢を強いているのではないだろうか? このような教育システム・学校社会自体が持つ、生徒を受け身にし、また束縛するという機能が、社会的立場の固定から脱却して自発的に「問う」という行動を抑止するという結果を生み出している可能性が考えられる。そして初等・中等教育機関が哲学対話のような試みを自主的に行うということは、上記の「機能」に対立的であり、それが容易ではないことは想像に難くない。このことを踏まえると、外圧として哲学対話が存在する意義は非常に大きい。現在、一部の学校が哲学対話を課外活動として取り入れたと研修の際に伺った。また、哲学対話は今後新たな地域でも開催されるそうだ。学校が自発的に行うのは難しいと考えられる試みでも、現在の一部での活動が伝播することによって、哲学対話のような取り組みがより多くの初等・中等教育機関で行われることを筆者は願う。

報告日:2018年4月13日