公開講演『視覚文化とセクシズム:サバイバルのためのアプローチ』報告 亀有 碧

公開講演『視覚文化とセクシズム:サバイバルのためのアプローチ』報告 亀有 碧

日時
2017年1月22日(日)14:00 - 17:00
場所
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1
講演者(五十音順)
笠原美智子(東京都写真美術館事業企画課長)
北原恵(大阪大学教授)
斉藤綾子(明治学院大学教授)
司会
清水晶子(本学准教授)
コーディネーター
佐々木裕子(プログラム生、本学博士課程)
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト5「多文化共生と想像力」
協力
プログラム生有志グループ

本講演会は、異性愛中心主義を強化・再生産するセクシズムが、とくに視覚表象にいかにあらわれているか、そしてそうした表象が創造されたり受容されたりする空間において「サバイヴする」ことはどのように可能であるかという主題をめぐって開かれた。近年、日本においても三重県志摩市に公認された海女のキャラクターや東京メトロの公式キャラクターとしてデザインされた女性駅員のキャラクターなど、行政や企業に公認された視覚表象のセクシズムが批判を受ける事例が相次いでいる。表象に不可欠な記号化の作用は、ときに一方向的かつ固定的な眼差しの権力性を濃縮してあらわし、そうした表象を構成する視座が表象を通じて受容者に分配されることによって、権力的構造を維持した眼差しの再生産に寄与してしまうのである。本報告書では、以下に講演内容を要約したうえで、最後に所感を述べたい。

講演者の三人は、いずれも視覚表象に対する、フェミニズムあるいはジェンダー論の立場からの批評に携わってきた方々である。笠原美智子氏は東京都写真美術館のキュレーターであり、北原恵氏はジェンダーの視点からアートや視覚表象全般を、斉藤綾子氏は映画批評をなしてきた。

まず、笠原氏は自身が中心となって開催した展覧会を紹介された。1991年に開かれた展覧会「私という未知へ向かって」や1998年より始められた展覧会「ラヴズ・ボディ」では、女性ポートレートや女性ヌード写真を通じ、男性によってまなざされたものではない女性の身体像を提示することに成功した。笠原氏はまた、石内都氏や菊地智子氏といった現代女性写真家も紹介された。両者はいずれも私的な記録として作品制作をはじめたが、フェミニズム・ジェンダー的視点をもっていると笠原氏は評す。石内氏は「Mothers」シリーズや「ひろしま」シリーズ、「フリーダ」シリーズを通じて女性たちの私的な遺品を記録することによって、亡くなった女性たちを、ステレオ・タイプではなく、普遍的で、なおかつ生々しい存在として指し示している。一方で菊地氏は、北京のドラッグクィーンを撮影し、中国におけるセクシュアリティを取り巻く環境の移り変わりを提示している。

つぎに、北原氏は天皇表象の歴史と、天皇表象に対しても働いている表現規制について論じられた。氏によれば、戦後の天皇表象(とくに天皇を報じる新聞写真)は、彼の男性性だけでなく、慰安する女性的姿をもあらわすことによって、天皇制を存続させてきた。また、天皇表象は、富山県立近代美術館での大浦信行氏の作品および図録の扱いをめぐって巻き起こった「天皇コラージュ事件」に代表されるように、現在に至るまで表現規制の対象とされている。北原氏は他にも、2001年に起きたNHK番組改ざん事件や慰安婦表象、複数の虚構を交えながら慰安婦を描いた絵本「花ハルモニ」等の例を挙げながら、表現規制とジェンダー的観点に基づく創作活動や批評の現在的状況について説明された。

斉藤氏は複数の映画作品を参照しながら、そこに写る女性の表象のなされ方について論じられた。たとえば、アルフレッド・ヒッチコック監督による「めまい」には、空想上のイメージとしてのみ女性身体が図像化されているが、反対にシャンタル・アンヌ・アケルマン監督の「ジャンヌ・ディールマン」には、女性の私的で多様な身体が映し出されている。あるいは興味深いことに、以上のような表象をなす主体(カメラアイ)とその表象の関係に、俳優の身体がより複雑な関係をもたらすこともある。たとえば斉藤氏は、「ステラ・ダラス」のラストシーンにおける女優の演技に、構成された筋とカメラアイが結託して写しだそうとする家父長制論理と、それに抵抗するような可能性をもつ身体の表現が見出されると論じる。

最後に、3人に司会の清水晶子氏を加え、ディスカッションが行われた。中心的な話題の1つはポリティカル・コレクトネスに照らした評価と美的評価に齟齬が起こるような表象に対する、あるべき受容の仕方に関するものであり、もう1つは「サバイヴする」方法に関するものであった。前者に対しては、笠原氏が写真自体の地位向上のためにもフェミニズム以外の評価基準にも照らして評価するという選択があること、北原氏がポリティカル・コレクトネスの基準にも時代潮流があるため、それに則って正しいか正しくないか判断することを目的としないし、むしろ判断できないものを切り捨てないようにすることが重要だということ、そして斉藤氏がそれらに同意しつつ、議論する場を設ける重要性について述べられた。後者の「サバイヴする」方法については、パロディー等を用いたズラシの戦略や、競争するのではなく繋がりを生み出していくような態度の重要性が説かれた。

本講演会は、実践の場におられる方々による様々な戦略を含めた「サバイヴ」の履歴を学ぶことができた点において貴重だった一方で、視覚表象にあらわれるセクシズムの解読それ自体についてはほとんど立ち入らなかったことが残念であった。表象をめぐっては、表象の仕方と表象された内容の関係によって構成される表象それ自体と、表象の外部にあってその対象とされる身体、それからその表象から遡行して構成される表象行為の主体(創造者/受容者、あるいはカメラアイの位置)、さらには表象から構成された主体の位置を裏切っていくような現実の創造/受容の行為者という諸要素がそれぞれに存在する。したがって表象の暴力性とは、表象と対象の関係──すなわち、その表象が女性をいかに表象しているかというような単純な問い──だけではなく、表象の仕方と表象の内容による表象の構成の仕方や、表象の主体と表象や、その主体から逸脱した創造/受容行為者と表象の関係の仕方等々の分析によって規定されなければならない。その意味で、本講演のタイトルに用いられた「サバイバル」という語のダブルバインド──殺されることも、優に生きることも推奨しない態度──と、その前提として措定されてきた「私たち」あるいは「私」という主体こそが問い直されるべきではなかったか。セクシズム的表象は、それを見て、セクシズムと判断する「私たち」をすでに、表象に指示された対象だけでなく、表象から遡行して指定される主体や、創造/受容の行為者へと分割しているのであり、それゆえに「サバイバル」のダブルバインドが生じるからである。表象におけるセクシズムの問題とは、これら表象をめぐる一連における外部の消去(殺害)と、消去痕の消去という二重の消去にあるのであり、求められるのは外部的な「眼」の再生にあるからこそ、「私たち」内部の亀裂、あるいは、実はすでに優に生きている「私たち」の一部分の正視をもたらす表象構成の厳密な分析が必要なのではないかと思う。

ihs_r_5_170122_sexism_01.jpg

報告日:2016年2月9日