「Imagining East Asia in a Global Perspective:  A Joint Forum by Graduate Students from China, Korea and Japan」報告 長江 侑紀

「Imagining East Asia in a Global Perspective: A Joint Forum by Graduate Students from China, Korea and Japan」報告 長江 侑紀

日時
2016年11月10日(木)〜11月14日(月)
場所
清華大学
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト5「多文化共生と想像力」

本フォーラムは中国・清華大学がホストとして中国・北京で開催され、東アジアから日本・東京大学、韓国・成均館大学校、西江大学校の多くの研究者と学生が参加した。東京大学IHSからは、林少陽先生とエリス俊子先生、多様な専門領域の修士課程・博士課程の学生6名が参加し、本フォーラムの題 “Imagining East Asia in Global Perspective”を軸に各人の研究内容を発表した。東アジアの三つの地域の大学と、この枠に留まらない様々な背景をもつ学生の参加が、2日に渡る議論をとても豊かにしたと感じている。東アジア各国の政治・文化的なつながりを歴史、宗教、芸術作品、社会的活動等のオリジナルの観点から考察する各学生の研究発表は、学問領域の違いを越えて、東アジア全体を、またグローバルスケールから東アジアを俯瞰し議論する重要性を再確認させてくれた。本フォーラムで特に盛んに議論された近代化と国民国家の概念について、またそれに付随する言語の役割についての二点を本報告書で述べる。以下は本フォーラムで得た知見とそれに対して構築された私自身の意見を交えたものである。

まず、「東アジアをグローバルな視点から想像する」という本フォーラムの目的に立ち返って「今この時」を考えると、近代化を通した社会の在り方の変化と、国民国家の概念が各「社会」に与える影響が鮮明に浮かび上がってくる。そこになんらかの「事実」や「正解」を求めるのではなく、そこから「議論を始める」という意味において、この「近代化」・「国民国家」という概念が、各発表の前提となっていることは明白であった。それはラウンドセッション時に各発表議題の関連性が示され、議論が広がることからも明らかであった。

では「国家」という枠を越えて東アジアで共同するには、どうすればいいのか。過去に遡り、近代化に伴い築かれた国境を前提としながら、歴史の中に共通点を見つけることも一つの在り方かもしれない。その共通点とは、人々の思考や文化を表現する言語・文字としての「漢字」かもしれないし、人々の信念や行動様式の基盤となる「儒教」かもしれない。しかし一方で、ラウンドテーブルで何人か――特に清華大学のワンフイ先生の一言が多くの人からの同意を得ているようであった――が指摘したように、国家の枠組みを前提にする限り、東アジア全体を包括する共通点の発見はこれより先にはありえないようにも思われる。それは歴史的な観点からみても、そしてそもそも個人同士でさえ完全な相互理解は不可能であるという点からも自明のことといえる。そこで、特定の共通理解に至ることではなく、互いを理解しようとする努力それ自体に意味を求めるとき、東アジアの共同の在り方に対して積極的な態度を見出せるのではないかという本フォーラムで見出された意見が、現時点でもっともしっくりくるように思われた。「近代化」の概念を軸とした議論は今後も絶えないだろうが、未来から振り返れば大きな転換期になるであろう2016年の「今この時」に、東アジアの共同化についての議論に参加できたことを光栄に思う。

以上の議論に付随して、ラウンドセッションの中及び各個人のセッションでも言及されるなど、盛んに議論された「言語」について記述する。『想像の共同体』のなかでベネディクト・アンダーソンは、ナショナリズムが言語によって想像された共同体の一種の形態であると論じた。すなわち、言語には特定の人々をまとめる・つなぐ役割があるだけでなく、現代社会においては、言語が投射する力関係――つまりどのコミュニティーがどういった場で、どの言語をどのように話すか――が、背後に隠れている国家の影響力の不均衡を表してもいるのである。前述した「漢字」もその一つの例である。そして本フォーラムが英語を基本的な共通言語と設定したことも、そうした議論を踏まえてのことである。それでも、あくまで「基本的に」という決まりであって、実際には議論の内容と発言者に合わせた言語の選択を広く許容していた。たしかに、全ての参加者にとって外国語であった英語の語学能力の差のために、議論を円滑に進めづらい場面も見られたが、今振り返ってみると、統一と多様性の許容の駆け引きのバランスをとることこそが今回のフォーラムの醍醐味であったと思われる。言語に一端をみる、一民族一国家、一国家にある特定の社会の在り方の暗黙的(時に明示的)設定に対し、多様なものを受け入れ、同時に深い思考や議論をする場の重要性と困難さを経験した時間であった。

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フォーラム以外にも、北京市内のスタディートリップが一日設けられた。首都としての北京の現在を、ほんの一片ではあったが見物することができ、百聞は一見に如かずとはまさしくこのことであると感じた。大気汚染の危険性が叫ばれて久しい北京であるが、天気のいい日には美しい紅葉と落ち葉を荘厳な文化遺産と共に楽しむことができる都市でもあり、中国という地域に興味を持つには十分な経験であった。最後に、このフォーラムの開催にあたり尽力していただいたホストの清華大学のみなさま、引率していただいた東京大学の林先生とエリス先生とIHSのスタッフのみなさまに感謝申し上げます。

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報告日:2016年11月17日