公開シンポジウム:マイノリティとクィア・スペース 報告 佐々木 裕子

公開シンポジウム:マイノリティとクィア・スペース 報告 佐々木 裕子

日時
2015年1月24日(日)14:00 - 17:30
場所
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1
講演者
ジョナサン・マーク・ホール(Pomona College)、いちむらみさこ(アーティスト)、菅野優香(同志社大学)、清水晶子(本学、司会)
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト5「多文化共生と想像力」

どこかの場にとどまること、あるいは移動し、そしてまたとどまること。

それらはすべて自らの意のままにおこなえるものではない。国籍、市民権、永住権、滞在許可、住民票などによって、特定の国の特定の地域にとどまることを公的に許可されること、また、私企業と契約を結んだり、そのサービスの代金を支払うことによって、特定の場に存在することが可能となる。だが、公的な許可があり「合法的に」特定の場にいることが保障されていたとしても、社会的、文化的な、慣習、通念などにより、その場に居ることがのぞましくないとされる場合もある。それだけでなく、そのような価値観はまた、公的な許可が誰に与えられるべきであるかを決定するのに大きく関わっている。その場に居ていいひとと、そうではないひとを分ける線引きがすでに存在しているわけだが、そのような線引きによって「そうではないひと」の側にされたひとびとは、さらに、そのことを理由にもたらされる偏見や差別、暴力に直面することになる。本講演では、三人のゲストによって、この問題についての議論が展開された。

ホール氏の議論は、1960年代後半にロード・ハンフリーズが参与観察を行った、男性とセックスをする男性たち(必ずしもゲイ、バイのアイデンティティを持っているとは限らない)による、公衆トイレの一時的な占拠を出発点としている。これらの男性たちは見張り役などを立て、役割を交代し、会話を交わすことはほぼ無く、それぞれの目的を達成して去っていく。彼らは、今よりもなお同性愛者、同性間性交に対するバッシングが激しく、警察がベッドルームまで踏み込んでいた時代に、彼らだけによるホモエロティックな場所を束の間であれ創出していた。ホール氏はこれに着想を得た、パフォーマンス作品の制作に携わり、この冬、金沢と東京での公演が実現された。

菅野氏は、特にLGBTあるいはクィアの名を冠する映画祭について議論された。特に近年LGBTの権利問題は、「人権課題」として着目を集めるようになり、映画祭の開催にあたって地方自治体からの助成を受けるケースが増えている。多様性を尊重するかに見えるこの動きの一方で、しかしながら、映画で表現されるセクシュアリティの多様性は貧しくなっていく。セクシュアリティとは、自らの手に負えず、説明もできないような、不条理なこと、時におぞましいとも言えるようなもので成り立つはずなのだが、わかりやすいカミングアウトや、パートナーシップの成立に関わる話が増えているという。既存の、性的少数者を排除してきた側の制度と、自分達はさほど変わらないのだという主張が主流化していくことにまつわる問題性が指摘された。

いちむらみさこ氏は、公園で野宿生活をし、アーティストとして活動されている。男性の多い野宿生活者のコミュニティの中で、女性たちが集まれるようにと、カフェをひらき、布ナプキンの制作と販売なども行っている。そこでは貨幣経済や私有財産や所有権などに保障されるのとは異なった、場の共有や関係性の成立がなされているという。野宿生活者は、政府や自治体による強制排除や、第三者からの差別や身体的な暴力にさらされている。「この場はお前のものではない」「汚い」といったことがその理由となる。これに対していちむら氏はアートで抵抗を試みる。それは「寝ることをとりかえし、食べることをとりかえす」実践であるという。

公的な場はそれ自体中立なのではなく、特定の存在(例えば女性や同性愛者)を私的な領域へと追いやることで成立した、つまり男性化、異性愛化されてきたものであることを、フェミニズム、クィア理論・ポリティクスは、長年にわたって問い続けてきた。何が/誰が「正しい」とされ公的な場にとどまることが許されるのか、公的な場が「正しい」ものによって占拠される時に排除され生存を困難にさせられるのは誰か、「正しい」ものはどのように範囲を拡大/縮小するのか。特に2015年は渋谷区をはじめとして、いくつかの自治体による同性パートナーシップの公的な保障が開始された年であるため、これらの問題をあらためて考えることは重要な意味を持つ。渋谷区はテントを撤去したり、炊き出しの会場を封鎖したりと、野宿生活者の強制排除を繰返している。これまで「正しい」側ではなかった同性カップルには(部分的な)恩恵が与えられつつ、野宿者の「正しくない」側としての位置付けはなおも強固にされている。「正しい」「わかりやすい」映画作品の上映〈のみ〉が増えるというのは、この線引き、構造と軌を一にするものだととらえることもできる。

またそのように性的マイノリティの側が「正しい」側へと寄り添うときには、同時に、「正しい」性的マイノリティ、「正しくない」性的マイノリティの分断が成立していることにも目を向けなくてはならない。これまでの異性愛体制で「正しい」ものとされてきた、モノガミーのカップルであること、セックスは唯一のパートナーとのみ行うべきであること、そのような関係性を永続させること、などを志向する存在だけが、法的な保障を与えられていく一方で、そうでないひとびとは取りこぼされ、なおも生きがたさを抱え込むことになる。ホール氏は、この講演の以前に清水晶子先生の授業にゲストレクチャーとして来られたが、そのときに、注目したいのはトイレでまさしくセックスを行っていたひとたちだけではなく、見張り役だけをやっていたひとたち、セックスをせずに帰ったひとたちであると述べておられた。それらのひとたちがのぞむものはおそらく、「セックスできないなんて」「パートナーができないなんて」かわいそうだと決めつける向きとは異なるものであると言え、「わかりやすい」ものとは異なるあり方のセクシュアリティについての議論を発展させる可能性が見出せるのではないかという。

本講演でもしばしば指摘されたように、多様性というものをもし尊重する立場をとるのであれば、「正しい」とそうでないものの線引きの恣意性を批判的に考察し、一見「おぞましい」、「汚い」、「わかりやす」くはない性/生のあり方についての語彙、表象を増やしつつ、議論をさせていくことが必要であろう。あるいは、わかりやすさや、きれいさに戦略的に訴えることが功を奏したとしても、それが「正しさ」を温存させるものであるのなら、差別、排除、暴力はなおも起こり得るのだし、そしてそれは生き死にに関わる問題であるのだから。

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報告日:2016年2月27日