現代日本社会におけるヘイトスピーチ問題と多文化共生について
~映画『ロス暴動の真実』(2008)から考える 報告 長江 侑紀

現代日本社会におけるヘイトスピーチ問題と多文化共生について ~映画『ロス暴動の真実』(2008)から考える 報告 長江 侑紀

日時
2016年7月20日(水)16:30 - 19:30
場所
情報学環本館7階・メディアスタジオ
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト4「多文化共生社会をプロデュースする」

今回の上映イベントを通して報告すべき点は3点ある。内容について2点、上映会というイベントの開催について1点である。

今回のメイントピックである「ヘイトスピーチ」という単語は、日本で2013年のユーキャン流行語大賞トップテン入りした。最近といえば最近であるが、国内ではその頃が「ヘイトスピーチ」に対してセンシティブに、盛んに議論されていた。3年経った現在も「ヘイトスピーチ」は存在し続け、おそらく「ヘイトスピーチ」と呼ばれる、ある集団内の「他者」に対する排他的な思想や言動はどの時点でも一定数存在するのだろう(か)。社会とは二人以上の集団のことを指し、また個人レベルから自分(たち)と「その他」の感覚を所有することが人間の本質だとすれば、おそらく人間の歴史には集団単位での排他性は当然のように存在するのであろう。以上のことについて丁寧に検討することが必須であり重要であるが、ここでは一旦横に置いて、この「ヘイトスピーチ」の概念が、近代化以降の国民国家体制が基盤になっていると仮定し議論する。特に「グローバリゼーション」の加速によるものであるとする。

la01.jpg
la02.jpg

上映会『ロス暴動の真実』(2008)では、1992年にアメリカ国内で起きたLA riotsの経緯を、出来事の背景、特に①民族的対立(しかも文化的少数集団とされる集団同士の対立)と、②メディアの役割(影響)に焦点を当て、主に「被害者」である韓国民族側の視点から描写したものであった。以下は散漫とした議論であるが、特に強く感じたことを書き留めておく。

①近代国家成立の象徴であるアメリカ国内の「白人」と「黒人」の対立は、時代を経て、さらに「グローバリゼーション」の影響を受け、文化的マイノリティやニューカマーと呼ばれる文化・民族集団同士の争いへとその影響力を広げているようにこの映画から感じた。LA riotsでみられたような民族的対立は、「多文化共生」と対立した現象で、「多文化共生」の調和が乱れたから起きてしまったようにも考えられるかもしれない。しかし本当にそうだろうか。ロサンジェルス(カリフォルニア州)、いわゆる「多民族」が集まった地域では、異なる文化集団が「共生」しているからこそ成立しているのだとする議論は、丁寧に検討が必要である。「民族」「文化」とは一体何を基準にして境界線が引かれているのか、「共生」とはどういった状態を指すのか、そして「多文化共生」を目指す目的はなんであるのか、そもそも「多文化共生」を掲げる必要性はどこからきたのか、といったことだ。この映画を鑑賞するだけでもちろん答えが見つかるわけではなく、上映後の参加者同士の議論でも結局は「難しい問題ですね」となることからもわかるように、「難しい」課題ではある。しかし、国際的に不安定な状況にある現代においては必須の議論であると改めて考えるきっかけになる貴重な1日であった。

②メディアの影響は、テレビ、ラジオ、さらにネットが普及した現代社会において、考えないわけにはいかない。メディアで流れてくる情報が「事実」となり、メディアこそが「現実」を形作っている。その点に対して、今私が置かれている状況から容易に考えられる身近な現象であり、同時に脅威さえも感じた。今回の映画は、在米韓国人の視点で作成されたものであり、その意図は、当時マスメディアが偏った視点で情報を市民に提供していたことに対して、作成されたという経緯があるということを忘れてはならないと思う。マスメディアを含め、誰が、何に対して、どのようなメッセージを発信しているか適切に把握する姿勢が大切であることを改めて学んだ。

③最後に、こういった上映イベントがより頻繁に、よりフランクに開催されることを希望する。ドイツの大学にいたときの、毎週金曜日の夜の「ムービーナイト」を楽しみにしていたことを思い出す。勉学の息抜きにもなり、また一人で鑑賞するのとは異なり、上映後にみんなで議論ができるところも楽しかった。ちなみに会場について、IHSのイベントといえばいつも駒場キャンパスで開催される印象が強いため、本郷キャンパスでの開催は少し嬉しかった。

la03.jpg

報告日:2016年7月24日