ムーミンの国フィンランド:個性を育てる教育・福祉・サービスの思想 金 信行

ムーミンの国フィンランド:個性を育てる教育・福祉・サービスの思想 金 信行

日時:
2017年8月1日(火)10:30 - 12:30
場所:
東京大学駒場Ⅰキャンパスファカルティーハウスセミナー室
主催:
JSPS科研費(基盤研究B)(JP16H03091)「精神医学の社会的基盤」プロジェクト
共催:
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト3「科学技術と共生社会」

本報告者は教育プロジェクト3「科学技術と共生社会」共催の「ムーミンの国フィンランド:個性を育てる教育・福祉・サービスの思想」に参加した。講演会では、フィンランド在住通訳者でありムーミン研究者の森下圭子さんに、フィンランドを支える教育や医療、福祉/それらを支えるフィンランドの文化についてお話しいただいた。フィンランドでの長きにわたる在住経験に裏づけられた森下さんの語りは饒舌そのもので、ムーミンやそれを生んだフィンランドという国への森下さんの愛が存分に伝わってくる講演会であった。本報告書では、本報告者が講演会を通じて得た学びや気づきを講演内容に紐づけて述べたい。

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森下さんのお話はフィンランドにおける教育制度/医療制度/福祉制度の概観から始まった。フィンランドでは、初等教育から高等教育に係る費用はすべて国が負担する。これは学費だけの話ではない。教育に必要な文房具類などの備品から趣味に使うものまで、申請さえ行えば経費が支給されるのである。医療については18歳未満の子どもは医療費が無料であり、公立病院での成人への医療サービスの費用は極めて低く抑えられている。ただし、公立病院の医療サービスを予約するには時間がかかり、緊急の治療が必要であれば高額な治療費を払う必要のある私立病院に行かねばならなくなる。フィンランドの福祉では、個人所得の80%の納入によって老人ホームでのあらゆる生活費用がすべて無料になる。以上のように極めて充実した各種制度の背景には、制度の対象者を社会から排除する事態に陥らないようにする、ある共通の考え方が存在する。それは「個々人が少しでも長く自立して生きていけるようにサポートする」という考え方である。これはどういう背景から成立しているのだろうか?

この点について、講演のタイトルにムーミンが入っているのは偶然ではない。森下さんによれば、『ムーミン』はフィンランド人の気質をよく表した作品だという。『ムーミン』のキャラクターはみな見た目が相当異なる生き物であり、それらが当たり前のように共存しているという、少し考えてみると不思議な話である。そして物語として『ムーミン』に特徴的な点は、キャラクターの誰もが未熟でありながらも助け合って冒険が成立していることだと、森下さんは仰っていた。このように、個々人を取り巻く状況は千差万別であって、各々が個性を発揮して生きていくことを追求するという姿勢こそ、先に述べたフィンランドの各制度の方針を支えるものである。あるいは、それらを生み出したといってもあながち間違いではないのではないか?

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ここからわれわれがなんらかの直接的な教訓を拾い上げることは難しい。『ムーミン』を題材にして前にまとめたことはフィンランドの文化やフィンランド人の気質といっていいようなものであり、違う文化をもつ人間が他の文化を簡単に真似することなどできないからだ。しかし、それでもここで明確にするべきことがあるとすれば、各種細かな制度ではなくそれを支える文化や思考様式からこそわれわれは刺激を受けて反省的に考えていかなければならないということであろう。いくら制度を変更したとしても、それを受け止めるのは異なる文化や思考様式をもつわれわれなのである。文化や思考様式にはっきりとした優劣などないが、常識的に考えてみてニュースや日常の出来事にすらなにか違和感を感じた時こそ、自らが依拠してきた文化や思考様式を反省的に捉え直す契機となるのであり、他の文化や思考様式を知ることで変化が生まれるかもしれない。本稿で本報告者が確認したことは今後われわれが向かうべき方向を切り開くにはあまりに些細なことである。それでもそのことは、一筋縄では解決できない問題状況から前進するにあたって決して忘れてはならない土台であるはずだ。

報告日:2017年8月22日