「原発事故から5年間、そしてこれから──放射線測定の現場より──」報告 田中 瑛

「原発事故から5年間、そしてこれから──放射線測定の現場より──」報告 田中 瑛

日時
2016年7月29日(金)18:00 - 19:45
場所
東京大学駒場Ⅰキャンパス18号館4階コラボ1
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト3「科学技術と共生社会」

2016年7月29日(金)、総合文化研究科の小豆川勝見助教による講演会「原発事故から5年間、そしてこれから──放射線測定の現場より──」が開催された。主催のプロジェクト3「科学技術と共生社会」では、最先端の科学技術に関する知識と現場感覚を兼ね揃えた問題解決能力を有する人材の育成を目標に掲げている。マス・コミュニケーション研究を専攻する筆者は、今回の表題に掲げられた「原発事故」と科学技術が陥りがちな専門家主義に関する関心から、本講演会に参加した。小豆川先生による説明を通じ、原発事故をめぐる状況を理解しただけでなく、大学内外の参加者による鋭い質問や議論を通じて新たな問題意識を抱くことができたので、詳細に記述する。

震災前に研究用原子炉や加速器で研究を行っていた小豆川先生は、震災を機に様々な環境での放射線測定を始めた。原発事故は原子炉が「安全」だと信じていたことに対する反省の契機から、関心がより実証的な研究に移り、現在に至る。今回の講演会では、客観的な科学に基づく事実的側面とそれに対する評価を含む価値的側面を切り離し、前者に関する説明から丁寧に進められた。そこには、対立する立場でも共有できる事実の確認から丁寧に議論の土台を作り上げていく意図がある。

まず、ウランの核分裂の結果として生じたものが放射性物質であり、「ベクレル」や「シーベルト」という単位概念が区別されるものであるというような基本的知識の共有が行われた。ベクレルは1秒間に壊れた原子核の数であり放射線の量ではないこと、シーベルトは放射線による身体ダメージを数値化するが、同じ値でも細胞の修復には個人差があることを考慮しなければならないことが強調された。また、実際の放射性セシウムにビニールシートをかぶせ、探知機を使って発見するという実演が行われた。光や電子を用いた探知では、わずかな条件によりそれが困難ということを理解した。

今回の講演会の本題は「食品中の放射性セシウム」であるが、個人で購入するには高額の機器を用いなければこれを検出することができない。もはや非専門家が自力で判断することはできない領域となる。小豆川先生の調査によれば、被災直後には明らかに基準値を上回る福島県産の食品が流通していた。しかしながら、現在はきのこなどの稀なケースを除けば、ほとんどの食品が基準値を遥かに下回っている。また、福島県以外の地産の食品が基準値を上回る場合も見られるにも関わらず、「福島県産」のマイナスイメージから基準値を圧倒的に下回る食品も出荷できない状況にあること、一件の農家が基準値を上回っただけでその共同体が全て出荷停止になる連帯責任的な状況にあることの指摘もあった。この客観的事実をどの様に解釈するのかが、今回の講演会の争点となった。

この事実を元にして、様々なバックグラウンドを持つ参加者たちから多くの意見が出された。特に印象深かったのが、科学者の示す「安全」はクリアしていたとしても、現実には消費者の期待する「安心」はクリアできていないという指摘だ。例えば、行政が示す基準値に対する不信感が挙げられる。小豆川先生が提供した食品中の放射性セシウム量の推移のグラフを注視すると、震災の1年後に基準値が500ミリシーベルトから100ミリシーベルトに変更されていることが分かる。つまり、現在では問題となる100ミリシーベルト以上の放射性セシウムが含まれる食品も災後1年は「安全」な食品として流通していたことになる。もちろんこの基準値の変更には、チェルノブイリ原発事故を参考に推定された値で1年間様子を見た後、現状に合わせた値に変更されたという経緯がある。しかし、専門家の判断に全面的な信頼を置くしかない多くの消費者が、自明とされてきた「安全」に対して漠然とした不安を抱いている。ほとんどの食品が「安全」であるとされているにも関わらず、専門家と一般市民の間には大きな溝が広がっているように思われる。

このことから何を考えることができるだろうか。近代は自然科学の高度な専門領域を「客観的なもの」として社会的な論争の外に位置付けてきた。それは、実際に「ベクレル」で基準値が示されたところで、それを解釈する手段がないことを意味する。繰り返しになるが、ベクレルもシーベルトも人体への影響を一律的に示す単位ではなく、そこに何を読み取るかを客観的に定めることはできない。その結果、置かれた状況を「どうにもならないこと」として諦観し、漠然とした不安を抱えるしかない人が増えていく。科学技術の発展の副作用として生じた放射線リスクをめぐる言説は、データに対する多様な解釈に開かれるばかりか、データを抜きにした漠然とした不安に塗りつぶされている。こうした状況が、放射能に対する世論の関心を高めたと言えるだろう。これは価値的側面の問題であるが、事実的側面の正当性が失われた結果でもある。とはいえ、あくまでも事実的側面を無視して価値評価を下すことはできない。小豆川先生はこうした議論が何十年も続くと考え、議論のための科学的なデータを整備すべく研究に従事し、一般市民に対してそれを伝えようとしてきた。専門家と一般市民が対話を続けることにより、科学的事実に対する過信や不信、無関心のいずれでもない形で、事実を共有した上で開かれた議論を行うための場を絶えず形成する必要があるだろう。

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報告日:2016年8月2日