「水俣研修」報告 亀有 碧

「水俣研修」報告 亀有 碧

日時
2016年2月15日(月)-17日(水)
場所
国立水俣病総合研究センター、水俣病情報センター、水俣市立水俣病資料館、エコパーク水俣(水俣湾埋立地)、水俣病歴史考証館
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト3「科学技術と共生社会」
協力
国立水俣病総合研究センター(熊本県水俣市)

1956年に水俣病患者が公式に確認されてから今年で60年が経つ。本水俣研修では、熊本県水俣市において、国立水俣病総合研究センターの職員の方々からお話を伺ったり、水俣病情報センター、水俣病資料館、水俣病歴史考証館といった資料館、実際にメチル水銀が流されていた百間排水口遺構や、水俣湾の水銀汚泥の埋め立て地にある親水護岸、水俣病慰霊碑といった現場を訪ねたりした。その中で、水俣病問題が、この60年の歳月を経てなお、単なる一企業の過失と補償の問題にとどまらない多面的かつ現在的な問題として存続していることに直面した。本報告書ではとくに、(1)経済政策が地域社会に与える歪み、(2)科学的究明と求められる補償のバランス、(3)社会的差別や地域社会への影響という3点の問題について、今回の実習で学んだ内容をまとめつつ考察していきたい。

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(1)経済政策が地域社会に与える歪み

熊本県最南部、鹿児島県との県境に位置する水俣市は、天草の島々を擁する穏やかな不知火海と山々に囲まれてある。「月浦」、「出月」、「湯堂」と、そこを舞台にした石牟礼道子の小説をひかずとも魅惑的な地名の並ぶこの地域にはしかし、豊かな海洋資源の他には農業等に必要な平地が少なく、農家の現金収入は製塩業のみであったがそれも塩専売法の施行によって断たれてしまう。そうした地理的背景のもとで、発電所を前身とした化学企業チッソは水俣地域への経済的影響力を増大させ、水俣はいわゆる企業城下町と化していく。アセトアルデヒドの生産によって国家の産業政策を支えるチッソと国家の癒着関係およびそのチッソと水俣市の癒着関係は、後の水俣病発生において行政の対応の遅れや市民感情の縺れをもたらしていくこととなる。現在でも元チッソ水俣工場(現JNC株式会社水俣製作工場)は市街中心部に巨大な敷地を保有しており、これを今なお排除しないことに水俣市の捻じれが垣間見えるようにも思えた。同時にそれは、地方零細都市に発生した水俣病をしり目に経済発展を続けてきた国家全体の捻じれの体現でもある。

更に言えば、現在チッソは、「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」に基づき、実質的な事業を子会社であるJNC株式会社に譲渡し、自らは県債による公的融資を受けながら補償をおこなう機関と化している。したがって、元チッソ水俣工場は現在JNC株式会社水俣製作工場と看板を変えている。この、可視的な代替物の生産によって責任主体の核心が不可視化されている構造は、JNC株式会社とチッソの関係のみならず、チッソと、チッソを有責企業として存続させる国家の関係にも通底し、国民ともども前述の捻じれをやりすごすことを可能にしてきたのではないだろうか。水俣病患者の認定問題にも同様の構造がある。その発生時期等が未だに不明瞭であることや、疾患に個人差があるとの性質上、水俣病と正式に認定するための基準作りは難しく、ほとんど認定件数は増えていない。近年は法廷闘争の長期化を避けるべく、医療手帳の交付によって「特別措置」としての医療費の公的負担を受けられる代替制度の方が機能している。その結果、正式な水俣病認定患者は3千人であるのに対し医療費の公的負担者は8万人にまで差が開いている。ここでも同様に、代替物によって問題の核心が不可視化され接触できないという、水俣病問題のブラックボックス化の現象がみられるのである。

(2)科学的究明と求められる補償のバランス

国立水俣病総合研究センターでは、現在明らかにされている水銀についての科学的な説明を受けた。チッソによるアセトアルデヒドの生成に伴って排出されたのは、公式には無機水銀であり、それが海中のバクテリアによってメチル水銀へと変化した。メチル水銀は食物連鎖の過程で濃縮され、魚介類を食すことの多かった漁村民に多く障害を引き起こした。メチル水銀は体内でシステインとの複合体を成すことで、メチオニンというアミノ酸に化ける。これが原因で毒素排除の機能が働かず、アミノ酸輸送体を介して全身を犯し神経細胞をも害する。その結果、患者には運動障害、感覚障害、知的障害など別個に異なり、かつ、それぞれに程度の様々な障害が現れたのだ。特に胎内で曝露をうけた胎児性水俣病患者の障害はより深刻であった。

しかし、1956年の公式確認から、原因物質の公式的な特定およびアセトアルデヒドの生産停止、すなわち水銀の流出停止に至るまでは、12年の歳月を待たなければならなかった。この遅れは、前述した癒着関係に基づく省庁及び行政のチッソ擁護の姿勢や、チッソ自身がチッソの工場排水による障害の発生を確認したネコ400号実験等の内部実験結果を隠匿したことなど、容認しがたい故意にも起因している一方で、厳密な原因究明が当時の科学知識においては困難だったという研究当事者にとっては不本意な結果にもよる。当時はそもそも、無機水銀が有機水銀(メチル水銀)に転ずることや、胎内曝露のメカニズムが知られていなかった。また、同種の工場が国内外に複数あるにもかかわらずなぜ水俣のみで公害が発生したのかという原因は、今なお不明である。

水俣病をめぐる科学者たちのあり方から問われるべきなのは、完璧な科学的知がありえた可能性ではなく、科学的知はしばしば現実に遅れた不十分なものであり、その知の発展は目の前に発生している患者に対する行政判断とは別個に扱わなければならなかったということである。科学的究明と早急な対策及び補償はどちらも軽視されてはならないが、結果的に前者は補償金額に、後者は人命にかかわる問題だった。水俣病の場合には科学第一主義のもとで、前者が後者を保留するための口実として機能したのであり、多くの近隣住民の証言や状況証拠的な動物の異常死といった異なる方面からの情報は精査されることもなかったのである。

(3)社会的差別や地域社会への影響

水俣病の社会的認知と補償を求める裁判の激化に伴って、地域内における水俣病被害者への差別も起こった。水俣病歴史考証館では、実際に被害者を冒瀆する手紙等の実物を見ることができた。歴史考証館によればこの差別・敵対意識の生成は、住民の生活が深くチッソに依拠していたためにチッソの倒産を恐れたり、患者に与えられた補償金を妬んだりしたという経済的側面によるだけでなく、古くから川上から川下にかけて社会階層と居住地域が固定的だったという文化的側面にもよるという。水俣病患者の多かった袋湾に近い漁業地域は、最も海に面した「外れ」であり、天草からの移民も多い貧しい地域だったという地域性故に差別意識が根付いていたというのだ。

また、時代によって差別の形態が変容しながら存続しているという点も考慮しなければならない。2010年には他市の中学生による市内の中学生への差別発言が問題になったが、それは水俣市や水俣病の文化や歴史などを知らぬままに、「水俣」という名がコード化することだけによって起きた差別である。差別は様々に形を変えながら利用され、存続していく。そこではおそらく「国家」や「権力構造」といった仮想敵のもとで「最下層」たる民衆の差別意識を不問にするのではなく、時代や場合によって異なる思惑のもとで差別が利用されてきたことの、その変容の分析が求められている。

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報告日:2015年2月21日