障がいと音楽 ─リカバリーと成長のための音楽─ 高村 夏生・堀江 郁智

障がいと音楽 ─リカバリーと成長のための音楽─ 高村 夏生・堀江 郁智

日時
2016年10月10日(月)13:00-16:15
場所
東京大学駒場Ⅰキャンパスファカルティーハウスセミナー室
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト3「科学技術と共生社会」

第一部:高村夏生

今月10日、「障がいと音楽—リカバリーと成長のための音楽—」をテーマに、第一部:「音楽がくれた希望 –自閉症のヴァイオリン・フルート・ピアノ演奏グループ ノブタク—」と題して、本間惟彦氏、小柳拓人氏による演奏会ならびに、オーティズムミュージシャン研究会の本間桃子氏、小柳真由美氏による講演会が、第二部:「Enjoying Sing Your Heart Out」と題して、Maggie Wheeler氏とPenny Holden氏による、イギリス・ノーフォークでメンタルヘルスの向上を目的の一つに行われている歌のワークショップの実演が行われた。以下はその報告であるが、第二部が私の出席できなかった7日の講演会「The Role of Therapeutic Activities in Recovery from Mental Illness」を受けたものであること、何より字数に限りのあることを鑑みて、本報告では第一部について述べたいと思う。

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第一部は、ノブタクによる演奏と、本間桃子氏【ノブママ】、小柳真由美氏【タクママ】による講演が交互に行われる形で開催された。演奏はホール・ニュー・ワールド(アラン・メンケン)に始まり、花のワルツ(チャイコフスキー)、チャルダッシュ(モンティ)、ラ・カンパネラ(リスト)、見上げてごらん夜の星を(いずみたく)と続き、最後に上を向いて歩こう(中村八大)を彼らの合奏のもと来場者皆で歌う形で締め括られた。

ノブタクによる馴染み深い曲たちの演奏はそれだけで十分楽しい時間となったが、やはり本会の意義は本間・小柳氏の講演がその演奏に並行して行われたことにあるだろう。両氏からはまず、ノブタクの2人が2010年、障がい者もメンバーとして加わった「コバケンとその仲間たちスペシャルオーケストラ」で出会い、現在のデュオ結成に至った経緯が語られ、続いてノブ、タクそれぞれの母親として、二人がどのように育ち音楽を習得していったのか数々のエピソードが共有された。最後にはノブタク本人も交えて、現在の会社勤務の様子などが紹介された。

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「障がい」に関わる様々なことを考えるとき、時に「他者を理解する」ということそのものに共通し、そしてその普遍性ゆえに日常的にあまり意識していない事柄が、明確に立ち現れてくるような心象を抱くことがある。今回の場合それは、自らあるいは誰かを紹介し理解してもらおうとする際、属性として付記する(あるいは指摘せずとも認識される)事柄が、紹介された側にとって何を意味するのか、ということだった。例えば、私が人に紹介され受け入れられようとする時、「東京大学の」、「女性の」、「理系の」、「大学院生(修士)の」、というラベルが頻繁に使われていると思う(女性であることを積極的に指摘されることはあまりないが、「女子学生」「女性研究者」という分類で発言することは多々ある)。そして本イベントで言えば、「自閉症の」演奏グループ ・ノブタクという紹介である。

この「〜の」という説明は、所属機関である場合は身分の保証を兼ねているものの、基本的には個人を越えた集団としての特徴・アイデンティティを受け手に想起させることだろう。集団的特徴というものが存在しているか疑える場合もあるし、存在していたとしてもその個人に当てはまるかどうかはわからないけれども。私の経験にのみ依拠した見解ではあるが、人が未知のものを理解しようとするとき、ひとまずその部分を可能な限り既知のものへと変換して、「未知の程度」を減らそうとする傾向があると思っている。であれば、「〜の」という説明に対して受け手が想起したイメージが、少なくとも最初は、そしてそれが修正される機会がなければずっと、説明対象の実像として受け容れられてしまうことも十分あり得るのではないか。そう思うとき、「自閉症の」という説明が、私にとって意味していたこと、あるいは講演者が聞き手にとって意味していると想定していたであろうこと、また他の人にとって意味しているであろうことは何なのか、考えたくなったのである。

事実としての自閉症は、社会性やコミュニケーション、言語の障害、そして興味の狭さや行動におけるこだわり・反復性といった状態をその特徴として定義されている(なお自閉症という診断名が広く知られているものの、最近はASD(自閉スペクトラム障害)という診断名に分類されることもある)。つまり、その症状は行動上の障がいとして認識される。

一方、私が今回「自閉症の」と聞いたとき、真っ先に思い浮かんだのは小学校のときの自閉症をもつ同級生だった。確かに、彼の様子は上記のような定義で説明できる部分もある。けれども、私以外にも、そうした定義ではなく自分の知っている自閉症をもつ人の様子を思い浮かべた人はいたのではないだろうか。そのイメージを頭の片隅に置いたまま、行われたノブタクの演奏、講演会で共有されたノブ、タクの「自閉症児」としての音楽習得の過程、特に「一度習得すると音が抜けない」「指番号へのこだわりや毎日決まったことを時間通りに行うことで落ち着くといった自閉症特性がピアノ練習に功を奏する」といった説明、あるいは「これができないからこれができないと思ってはいけない」という言葉たち。

本会を経てきちんと意識しなければいけないと思ったことの一つは、自閉症という診断名は、現れる行動を説明するものではあっても、現れない行動を(予測し)規定するものではないということである。その定義からも明らかなように自閉症はその内なる機構を包含しない概念であるし、発症機序についても、数多くの関連が示唆される遺伝子の報告や反応経路の提案が行われているものの解明まではまだほど遠い。にも関わらず、先にも述べた未知の事柄への応答の仕方、そして類推や想像、範疇化といった諸機能が、「自閉症だから◯◯だろう」という言説を可能にする。そうした想定自体が悪いわけではなくむしろ必要とされる時もあるだろうが、それが本当の自閉症当事者の実像であるか、常に確認し更新されなければならないはずだ。特に、それが「できる」「できない」という判断に関わる際にはより注意が必要だろう。と言うのも、その判断がもたらす帰結が重大なだけでなく、人は膨大なタスクを日々無自覚に処理できてしまっているためか、実際できていることと「できる」と意識されることに大きな差が有るように感じるからである

加えて、当人の何を「自閉症」に帰属させて考えるのかも、慎重にならなければいけないと感じた。もちろん症状が生活にどの程度反映されるかは個人によって異なるし、家族をはじめとする支援者においては「自閉症の子」として対応しなければならないことも多いかもしれない。けれども少なくとも第三者が、例えば私が同級生の症状ではなく彼自身を思い出してしまったように、自閉症を本人の全てに覆いかぶせるのは正しくないことだろう。まだ症状の理解が進んでいない分、どう線引きをしてどう当人と切り離して考えられる・考えられないのかはわからないけれども、少なくとも、わからないのだということを深く受け止めて、自閉症として診断される事象を安易に既知の概念や何かにしてはいないか、省みねばならないと感じた。

しかしここまで、本会の私にとっての意味を拙いながら考え考え書いてきたが、率直な感想は「演奏会楽しかったなぁ」である。IHSに所属して実感していることの一つは、場に立つこと、体験してみることの価値である。未熟さゆえにそれを解釈し、体系化し、経験として吸収するのに時間がかかることも多く、歯がゆさを感じたり時に意義を見失ったりしそうになるが、それで体験すること自体を否定はしたくない。何が言いたいかというと、一度はオーティズムミュージシャンコンサートに、足を運んでみてはいかがでしょうか。

第二部:堀江郁智

第二部のワークショップは、「Enjoying Sing Your Heart Out」と題される。本ワークショップは、10月7日に行われた講演「The role of therapeutic activities in recovery from mental illness」のいわば続編であり、7日の講演では紹介されるに留まったSing Your Heart Outの活動が実演された非常に貴重な機会であった。

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本ワークショップにおいて筆者が実感したことは、「集団的個体化(individuation collective)」の体験の重要性である。「集団的個体化」という用語は、20世紀フランスの哲学者ジルベール・シモンドン(Gilbert Simondon)によって用いられたものである。彼が博士主論文『形相と情報の概念に照合された個体化』L’individuation à la lumière des notions de forme et d’informationで行った説明を強引に簡略化すれば、「集団的個体化」は、私たちの「前-個体的な(pré-individuel)(「個体以前の」)領野における共鳴の伝播がトランスダクティヴに(演繹でも帰納でもない推論形式にしたがって)進むことによって生じる、ということである。それは、『類似と出来事――活動家の哲学と偶然の芸術』Semblance and event: Activist philosophy and the occurrent artsを書いた社会理論家・哲学者ブライアン・マッスミ(Brian Massumi)の言葉を借りるなら、「齟齬」し合う状態から「調和」の状態への移行である。合唱は、まさにこうした「調和」のイメージを体現するものとして、古くから象徴的な意味合いを持つ活動である。

あるいは、音楽とは揺れであるのかもしれない。「ビーアイ・ビーアイ(Vi Vi)」、「Ooo ee」という分節化され切らない、かといって原初的な叫びよりはまだ段階の進んだコミュニケーション手段(なせならそれは「共鳴」するから)を用いることで私たちは喉を鳴らし、迫り来る合唱の時に備える。そして「Belle Mama」という第一の曲において地球に対する愛を協奏することにより、私たちは個体化が生じたことを、「前-個体的な」次元で齟齬し合う複数の現実が、合唱という「個体化の操作」により「解決」の次元を発見したことを知るのである。つまり、これはラテン語で言うところのinformationem、「(心や精神に)形相を与える」という意味での「情報」が集団的次元で生じたことの証左である。

こうした力動的・存在発生的モメントは「Belle Mama」における「ベレ・ママ(belle mama)」というフレーズの反復から、二曲目「Tongo, Tongo」における「チムネ・ベフ・ベフ・オ(Chimné bahé, bahé, oh)」のリズムの妙技へと続くことでさらに増幅され(したがって合唱とは増幅器(amplificateur)である)、最終的には三曲目「Oh How lovely is the Evening」における曲タイトルの大合唱に収束することとなる。

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質疑応答では、参加者から「日本でまた開催された折には是非参加したい」といったコメントも寄せられた。本ワークショップは、大成功のうちに終わったと言えよう。筆者が、本ワークショップの持っていた原初的な熱を伝えることができていれば幸いである。

報告日:2016年12月19日