「多文化共生・統合人間学演習V 実地研修」報告 金 燕

「多文化共生・統合人間学演習V 実地研修」報告 金 燕

日時
2015年10月18日(日)-19日(月)
場所
旭酒造株式会社(山口県岩国市)(公財)放射線影響研究所(広島県広島市)、広島平和記念資料館(広島県広島市)(独)酒類総合研究所(広島県東広島市)、賀茂鶴酒造株式会社(広島県東広島市)
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト3「科学技術と共生社会」
協力
(公財)放射線影響研究所、(独)酒類総合研究所

本報告は、2015年10月18日から19日に行われた研修で訪問した施設のうち旭酒造株式会社、賀茂鶴酒造株式会社および放射線影響研究所(以下放影研)で得た知見と考察をまとめたものである。まず、酒造関連施設で先端科学と人間の感覚の融合による酒造りのあり方について言及し、次に放影研における専門家と被爆者および一般市民との関わり合いについて述べる。

酒造工場

研修で訪問した旭酒造株式会社(獺祭)と賀茂鶴酒造株式会社(賀茂鶴)では、酒造りの方針が大きく異なることを先に指摘しておきたい。
まず研修一日目は、山口県岩国市にある旭酒造に訪問した。酒造工場は街から離れた山中に位置し、その現代的な建物とその周りを囲む豊かな自然は対照的である。

伝統的な酒造りでは、「杜氏」と呼ばれる酒造りの第一責任者の経験と感性によって作業が行われるが、獺祭が造られる旭酒造では温度や湿度などの徹底したデータの管理のもとで行われ、味の均一性が保たれている。こうして作られた日本酒は高い品質を誇り、常に消費者の信頼を得ることに成功し、今や獺祭の知名度は世界的なものとなっている。日本酒は、完成するまで8つのプロセス(①精米、②洗米、③蒸米、④製麹、⑤仕込み、⑥発酵、⑦上槽、⑧瓶詰)を踏む。本研修では、旭酒造でそのうち②,③,⑤,⑥の工程を見ることができた。まず、クリアな味わいの日本酒を生み出す理想的な米として知られる「山田錦」を磨き、洗米、蒸米の工程を経て、麹菌を米に振りかけ、米に含まれるでんぷんをグルコースに変えていく。実際に、もろみを保管する巨大なタンクを覗くと、そこからまろやかな甘い香りが立ち込めて、発酵によって生まれた泡がゆっくりはじけるのが見て取れた。タンクには温度計が吊り下げられ、常にもろみの状態がデータ化されていく。蔵の壁には室温が表示されているパネルが並び、データ管理の徹底ぶりがうかがえる。これらのデータはすべてコンピューターに集約・記録される。こうして徹底したデータ管理を経て造られたお酒は、最終的に社長と副社長のテイスティング、つまり人間の味覚による品質の評価が行われ、その最終確認を経て出荷されることになる。

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旭酒造とは対照的に、賀茂鶴酒造は「杜氏・蔵人」制度の下で伝統的な酒造りが行われている。賀茂鶴の酒蔵は西条駅およびその周辺の街から歩いていける距離にあり、酒蔵の通りに入ると現代的な街並みから一変、伝統的な白壁の建物が並ぶ。本酒蔵は、一部機械を使った作業プロセスや温度計等によるデータ管理が行われているものの、お酒の味や品質を左右するようなプロセス(水や麹などを加えるタイミングの決定や発酵具合の確認など)は、杜氏の感覚によって行われる。また、麹米を布袋に包んで保存するなど蔵人らの手作業による伝統的な製造過程も重んじられている。こうした酒造りは優れた感覚と経験を必要とするため、杜氏として一人前になるには長い年月をかけた修業を要する。伝統的な作法によって出来上がった日本酒は、年によって違った味わいになることもあるという。「人間の手によって酒が作られるから、杜氏が変われば味も変わる。だから面白い。」と関係者は語った。

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大自然に囲まれた現代的な工場において現代的な酒造りを行う旭酒造の姿勢と、現代的な街に位置する伝統的な酒蔵において伝統的な酒造りを行う賀茂鶴酒造の姿勢は、本研修において対照的であり非常に興味深かった。しかし、両者は、単に「徹底したデータ管理による酒造り」と「人間の経験と感覚による伝統的な酒造り」という点で対立しているわけではない。データでお酒の状態を管理したり高度な機械による作業を行っていたりしても、最終的には人間の感覚による判断が重要となるし、伝統的な作法による酒造りを行っていても、温度などを数値化したり機械による品質管理が行われていたりしている。何百年もの歴史がある日本酒造りは、時代を経て一方では科学技術を積極的に取り入れ、もう一方では伝統的な作法を守っている。今回の研修では、現代の日本酒造りはまさにそのような時代の分岐点にあるということをうかがい知ることができた。

放射線影響研究所

研修二日目に放影研に訪問した。本研究所の目標は、「平和的目的の下に、放射線の人に及ぼす医学的影響およびこれによる疾病を調査研究し、原子爆弾の被爆者の健康保持および福祉に貢献するとともに、人類の保健の向上に寄与すること」であるとしている。1975年に財団法人として発足する以前は、アメリカで戦後発足した原爆傷害調査委員会(ABCC)として被爆者の健康を調査し、1948年より日本が研究に加わっていた。被爆者の影響調査と健康維持のための研究とはいえ、研究の主体がアメリカの組織であることに対して、当時の被害者およびその関係者たちの間で「被爆者の感情を逆なでしている」といった反発が生じていたという。こうした背景から、放影研は「被爆者の健康と福祉」を最大の目的とし、非営利で厳格な倫理基準に沿った研究を行う姿勢を貫いている。患者の理解と協力により、放影研は70年間にわたる大規模な集団調査を行うことが可能となり、これらの貴重なデータは世界でも評価されている。

原爆の歴史や近年生じた原発事故など、放射線と人間社会の関係はとてもセンシティブなものである。そのため、放影研は専門組織としての責任感の下で、被爆者との共感や対話を通した信頼関係の構築を非常に重要視している。そのことは、原爆被害者および被爆者二世・三世の感情を最重要視するため非営利の方針を貫いているという姿勢からもうかがえる。しかし、それによって研究が限られた予算の範囲内でしか行うことができないといったジレンマが生じている。もし、追加で民間企業等から寄付を受けたなら、今よりも研究の効率化・合理化が可能となるだろう。だが、それによって被爆者および二世・三世が完全なる「研究対象」となりうるし、もしその研究業績によって民間側が利益を得たなら、被爆者側はそれを「自分たちを利用して得た利益」として捉え、これまで築いてきた信頼関係が失われることになりかねない。「我々は常に被爆者の方と足並みをそろえていかなければならない」と関係者は述べており、被爆者の感情が軽視される状態で研究が進むことは避けるべきであると強調している。

放影研では、放射線の影響に関して、専門家らが被爆者だけではなく一般市民ともどう向き合うべきかも模索している。実際の取り組みとして、毎年8月にオープンハウスと呼ばれる地域住民との交流が行われている。このイベントでは、子ども向けに実験のデモンストレーションを行うだけではなく、一般人にもわかりやすい放射線に関する講義が行われたり、意見交換の場が設けられたりしている。放影研によると、2011年の福島原発事故のあとには、一般市民の参加者の意識が、放射線を巡る問題をより身近なものとして捉えるように変化したという。原爆の負の歴史や放射線がもたらす影響の不確実性などによって生じた一般市民と専門家の間の溝を、どう埋めていくべきかを考えさせられた。

報告日:2015年11月30日