イタリア研修「食・地域・文化遺産」 報告 高 琪琪

イタリア研修「食・地域・文化遺産」 報告 高 琪琪

日時
2017年9月18日(月・祝)〜25日(月)
場所
イタリア・ナポリ、ポンペイ、ソンマ・ヴェズヴィアーナ、ローマ他
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト2「共生のプラクシス──市民社会と地域という思想」

熱狂的信仰

初日9月19日の午前中、我々はナポリのサン・ジェンナーロ(San Gennaro)祭を見学した。ジェンナーロはローマ帝国によるキリスト教徒の大迫害時代に犠牲者となったベネヴェント司教であり、ナポリ民衆の守護聖人として崇められてきた。305年9月19日に首を刎ねられ殉教したが、その血が香水瓶の中に入れられ、聖人の殉教日である9月19日を含め、以後年に3回血液が融解する日があり、民衆は大聖堂に集いナポリの運命を担うこの融解の儀式を見守る。この日の大聖堂も、大勢のナポリ市民たちや観光客の熱気に包まれていた。オルガンの荘重な音色、司教に続いて市民たちが唱える敬虔な祈りが大聖堂中に響き渡っていた。クーポラ(丸屋根)やアーチ状の回廊を巡る窓ガラスから差し込む太陽光が、屋根裏、天井や壁の金色の装飾に反射され、空間全体を黄金色に染めた。やがて今年もサン・ジェンナーロの血が無事に融けたことで、ナポリの安泰が保証されると分かり、聖堂内で盛大な拍手が起こり、血液の入っている小瓶にキスをする人たちや、隣の観客とハグや握手を交わす人たちで場が歓喜の頂点に達した。

大聖堂の裏手に、「グリーア」(Guglia)と呼ばれるナポリ・バロック独特の塔状モニュメントがあり、それは後にローマのナヴォーナ広場で目にしたオベリスク(方尖塔)より、遥かに多くの装飾的な成分で特徴づけられ、力強い造形になっている。ローマのオベリスクが「教会の権威を象徴したのに対し、ナポリのグリーアは、熱狂的な祭りの記憶として大衆的な意味をもつ」[4]。この熱狂的な祭りの記憶がサン・ジェンナーロ信仰とともに蘇るたびに、ナポリ人は諸民族の差異性を超越し、自身や互いを「ナポリ人」として再認識しているのではないか。海を越え、ニューヨークに移り住んだナポリ人の子孫たちが毎年の9月19日にサン・ジェンナーロ祭を開催していることも、この信仰がいかに強く民衆に根付いたものであるかを裏付けている。

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「文化遺産」とともに

イタリアは世界で最も多くの世界遺産を保有する国であり、豊かな文化遺産の受け皿となった博物館が全土に亘って分布する。ナポリ国立考古学博物館のような、紀元79年のヴェスヴィオ山の大噴火によって埋没したポンペイやエルコラーノで出土した絢爛たる壁画やモザイク画で彩られ、ブルボン時代に描かれた華麗な天井画に包まれた由緒あるものもあれば、ローマのモンテ・マルティーニ博物館のような、90年代に閉所した火力発電所から生まれ変わった、風変りな博物館も存在する。ローマ時代に作られたアポロやアテナの彫刻の背景に、むき出しのパイプや巨大な蒸気タービンがまるでセットとなって劇場的な空間を演出していた。古代と現代との狭間に吸い込まれたような感覚に捕われながらも、違和感を微塵も覚えさせない調和した美だけが記憶に刻まれる。

この不思議な空間は、ナポリやローマのような、現代化しつつあるイタリアの歴史都市の縮図のように映った。ナポリの歴史地区を巡っていると、「歴史地区」と「緩衝地帯」、「文化遺産」と「日常生活」、「古代」と「現代」との境界が極めて曖昧なものであったことに気づくはず。それは即ち、文化遺産が市街地に溶け込めるような都市計画がなされていたことでもある。2日目の午前中に、我々はナポリのUniversità degli Studi Suor Orsola Benincasaの大学院生と合同発表会を行った。大学の校舎がヴォメロの丘の中腹に位置している。校舎の屋上から仰げばサンテルモ城が頂上に聳え立ち、見下ろせばナポリ市街やナポリ湾、そしてヴェスヴィオ山までも一望できる。かつて修道院だったこの校舎も、国立図書館へと変身を遂げた、スペイン総督時代に創建された王宮(Palazzo Reale)も、文化遺産と共存し、ともに進化しつづけるナポリの人々の知恵を体現している。昔ながらの古い町並みが取り壊され、その跡地に乱立する高層マンションが、歴史的景観をも破壊しつつある私の母国中国にとって、ナポリは見習うべき手本とも言えよう。

東京大学のソンマ・ヴェズヴィアーナでの発掘プロジェクトの最大の協力者であるProf. Ferdinando de Simoneは、文化遺産が市民に共同体意識 (sense of community) を喚起させる存在であると語り、考古学者には、遺物を基に歴史を再現・解釈し、言わば民衆の「記憶」を創造する使命があるが、「遺跡」や「記憶」をいかに活用するかは、市民に委ねられるべきと述べた。

実際、前述のSuor Orsola Benincasa大学の院生Chiaraさんは、破片から美を見出し、遺跡の上での展示を試みたという。ポンペイの町では、発掘作業が終了した邸宅の庭に大量の葡萄の木が現地のワインメーカーによって植えられており、南イタリアの眩しい陽光を浴び、完熟した大粒の実が顔を出していた。パエストゥム(Paestum)では、巨大な列柱を巡りながらギリシア神殿の中を歩き回って、誰しもが均整美に溢れたギリシア建築の息吹を肌で感じられる。

東京大学が主体となって2002年から進めてきたソンマ・ヴェズヴィアーナでの発掘プロジェクトの現場では、一般市民向けの現場公開デーや地元の小中学校などでの普及活動が功を奏し、出土した彫刻を地元の人々が祭の宣伝ポスターに使用したり、発掘の対象になったヴィラが果たしてアウグストゥス帝死去の地なのかはまだ判明できていないが、地元の高校生たちがそれを事実と仮定したうえで、オリジナルな演劇を作ったりしており、市民が文化遺産によってもたらされた「記憶」を自らのアイデンティティーとして認識しはじめている何よりの証拠である。中立的かつ客観的に過去を解き明かす学問分野という既成の枠組みに囚われず、一般市民に開かれ、一般市民を巻き込んだ考古学の行く先に、文化遺産による「記憶」の共有──地域の凝集力の向上──文化遺産を守ろうとする意思の定着、という好循環が期待できると考えた。

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「食」で繋ぐ

我々が3日目に見学したナポリ近辺のモッツァレラ・チーズ工場「Tenuta Vannulo」は、EUのオーガニック認証を受けた乳製品を生産している。水牛たちにマッサージを施したり、クラシック音楽を聴かせたりと、ストレスを感じさせない環境で飼育された水牛のミルクから作られるチーズ、ヨーグルトなどの乳製品の直接販売の他に、有名デザイナーを招いて革製品の製造と販売を展開したり、工場敷地内に自社製品を扱ったカフェやレストランを経営したりと、事業の多角化を図っている。特筆すべきは、搾乳には全自動式機械を導入しているが、モッツァレラ・チーズの製造自体は熟練の職人の純手作業によるものという点。練り加減もチーズを千切るタイミングも感触、言わば経験に基づくものである。機械化による量産品を遥かに凌駕する美味しさは、機械があらゆる分野で人間に取って代わろうとする今日において、「人」による食文化の継承の大切さを物語っている。

また、南イタリアは古くから銘酒の産地であり、ソンマ・ヴェズヴィアーナの遺跡にも、葡萄酒が大量醸造されていた痕跡が残されている。ローマ時代のカンパニアのブランド品ファレルノ酒は帝国全土で広く知られた銘酒の一つであった。報告者の調べによると、前世紀の初めに姿を消したこの伝説のワインを、地元のワイナリーは蘇らせたという。こうした食文化を忠実に守ってきたイタリアがスローフード運動発祥の地になったのは、必然的とも言える。

南イタリアはイタリアの北部に比べ、近代化や工業化が立ち遅れているが、太陽と海に恵まれ、代々受け継がれた豊かな食文化に、かつてのナポリ公国再興の鍵が隠されているように思えてならない。我々が後にローマで訪れた、日本にも進出しているイタリア食材の専門店Eatalyの存在もそうした希望を見せてくれた。

一方、イタリア語にconvivio(響宴)──一定の場に集い、生きるための原点である食事を囲んで興ずる──という言葉がある。地域の食材を使うことで、その食材が生まれる土地への愛着が増す。共通の食文化を持つことも地域の求心力に繋がり、民族の坩堝であるナポリから「ナポリ人」という揺るがないアイデンティティーが作り上げられた一因なのであろう。

ナポリの至る所に「ピッツェリーア」(pizzeria)と呼ばれる気軽に入れるピッザ専門店が立ち並んでいる。ピッザの起源は、アラブ圏の「ピタ」がナポリに伝わったのが始まりであり、さらに「ピタ」の原型は6000年前のエジプトに遡ることができると言われている。ナポリピッザの代表格には、ナポリのピッザ職人が統一イタリア王国の王妃マルゲリータに捧げた、トマト、バジリコとモッツァレラ・チーズでイタリアの三色国旗を模した「マルゲリータ」がある。ピッザの起源と、ナポリ料理を彩る香り豊かなトマトが、当時南イタリアを属国としながら、アメリカ大陸をも征服したスペイン人によって運ばれて来たことに注目したい。一枚のピッザから、ナポリの民族的・政治的・文化的多様性が垣間見える。古代ギリシアやアラブをはじめとする多様な文化を受容し発展させた歴史的経験から、多文化共生社会を目指す我々が学べるものが大いにあるであろう。

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遠くて近い古代人

ポンペイの町では、水圧を調整するために交差点付近に給水塔が設置され、地形の傾斜を活かし、排水に車道が利用されていた。個人住宅に足を踏み入れてみると、公共施設のいかにも合理的な設計から一転して、個性的で実に多彩なモザイク画が邸宅の床を覆うことに気づく。現代人が画素によって構成された画像という媒体で情報を記録、伝達するように、ローマ時代、またはそれ以前から、古代の人々は画素の代わりにテッセラと呼ばれる石や色ガラスの破片を巧みに使い、濃淡の微妙な変化で陰影やハイライトまでも再現し、2次元の絵に立体感を与えた。

ポンペイを散策していると、いくつもの当時の居酒屋と思われる家屋に遭遇した。店先のL字型のカウンターを囲み、葡萄酒を片手に談笑したり、フォロ浴場(Terme del Foro)で壁に立ち並ぶ神々の彫像を眺めながら、大浴槽に浸かったりするポンペイ市民の姿に思いを馳せた。

ただし、ローマ時代の「市民」とはあくまでも自由身分の人たちであり、その後の封建社会においては多くのナポリの庶民は城壁の外での生活を強いられていた。今日でも、富裕層を除いた一般市民はEatalyに並ぶ高品質の食材にありつけるのが容易ではないことを忘れてはいけない。格差は千年の歴史を超えてもなお社会を侵食している。技術の発展によって確実に進化を遂げた人間社会だが、本質的に変わっていない部分も多々あるのではないか。

噴火する度に甚大な被害をもたらしたヴェスヴィオ山だが、今は24時間体制でセンサーの監視下に置かれている。人間は先人の知恵や過去の失敗から学ぶことで、種としての進化を重ねてきたのである。現代社会が直面する様々な難問に対して、歴史とその沈殿物である文化遺産は豊かな発想の源泉として、解決の糸口となる大きな可能性を秘めていると、そう思わせてくれる研修であった。

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最後に

風光明媚で活気溢れる南イタリアと重厚な歴史を誇る帝都ローマ。両者に圧倒されながらも、昨年度の島根研修に続き、今回の研修はイタリアの土地で「食」や「地域」について再考する絶好な機会となった。そしてこの6日間で出会った数々の文化遺産が、私の脳裏にも生涯忘れられない「記憶」を焼き付けたのである。ソンマ・ヴェズヴィアーナでは発掘に実際に携わっている方々からお話を伺い、自分の研究テーマの考古学の分野における応用の可能性についても貴重なヒントを得られた。今回の研修を企画してくださったプロジェクト2の皆様に心より感謝申し上げます。

参考文献

  1. 沢井 繁男『ナポリの肖像──血と知の南イタリア』中公新書、2001年
  2. 小森谷 賢二、小森谷 慶子『ナポリと南イタリアを歩く』新潮社、2012年
  3. 本村 凌二『ポンペイ・グラフィティ──落書きに刻むローマ人の素顔』中公新書、1996年
  4. 陣内 秀信『南イタリアへ!』講談社現代新書、1999年

報告日:2017年10月16日