香港城市大学─東京大学IHSプログラム共同講義 報告 石川 学・亀有 碧

香港城市大学─東京大学IHSプログラム共同講義 報告 石川 学・亀有 碧

日時
2017年5月19日(金)
場所
東京大学駒場キャンパス13号館1311教室
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト2「共生のプラクシス──市民社会と地域という思想」

第一部:石川 学

2017年5月19日(金)、香港城市大学中文歴史学部の教員と学生の方々を東京大学駒場キャンパスにお迎えし、両大学の共同講義を実施した。講義は午前の部と午後の部とに分かれ、午前の部では、教育プロジェクト2の林少陽准教授による開会の辞と、村松眞理子教授による主催校挨拶に引き続き、本学東洋文化研究所の塚本麿充先生より、「近代日本と中国美術コレクション」と題したご講義をいただいた。午後の部では、本学総合文化研究科の小森陽一先生より、「戦後日本の平和主義と東アジア」と題したご講義をいただいた。講義終了後は本郷キャンパスツアーとなり、教育プロジェクト2の学生やスタッフが同行し、香港城市大学メンバーのご案内に加わった。以下、石川は塚本先生のご講義内容について報告を行う。

塚本先生は冒頭で、ご講義の結論となる内容三点を前もって提示された。すなわち、日本にある中国美術コレクションに偶然はなく、日本社会が必要としているために残っているものだということ、コレクションは地域と社会によって守られているものであり、地域と社会がなくなれば失われるということ、そして、日本の中国美術は「面白い」、つまり、固有の地域性と社会性を反映したものだということである。

先生は、日本の中国美術コレクションが、本国の傾向に忠実だった「極古渡り」(奈良・平安・鎌倉時代)から、独自性が発揮される「古渡り」(室町時代)を経て、本国の傾向を新たに認識する「中渡り」(江戸時代)、そして、本国の正統コレクションを積極的に収集する「新渡り」(明治維新以降)へと移行することを、豊富な画像資料を用いてご教示くださった。こうした推移は、国内での受容動向の変遷でありつつも、とりわけ「新渡り」にあっては、辛亥革命期の日中交流、同時期の西洋美術の流入といった、国際規模の文化・社会的変遷と不可分であるという。さらに、先生は、東京国立博物館研究員としてのご経歴をもとに、博物館における展示が、運営側の歴史観によって様相をまったく異にするものであること、先生ご自身は、中国や韓国、東南アジアの人々との交流のなかで日本文化が育まれてきた歴史を展示したいと望まれながらも、2020年の東京オリンピックを控え、「日本国」の歴史を展示するべきだ、という政治的要請に相対さざるを得ないことを指摘された。お話を伺いながら、個人的に、学芸員は「一番のがん」で、「一掃」しなければならないのだという、ある大臣の言葉を思い起こした。講義の最後に先生は、季節感を重視する日本の展示の独自性と、それを守るためになされている多大な努力について触れられた。地域と社会による活動なしに残り続けられないのは、作品だけではない。展示に携わる方々、展示のあり方とその歴史的意義もまた、変質にさらされるのだという思いを強くした。

第二部:亀有 碧

午後からは小森陽一氏のご講演「戦後日本の平和主義と東アジア」を拝聴した。小森氏は、近代日本文学研究者であると同時に、九条の会等に携わるアクティビストでもある。今回のご講演では、戦後日本における日本国憲法の成立過程と天皇制のあり方を分析対象に、戦争の歴史をめぐる日本人の無意識がいかに構造化されていったかを明らかにされた。

そもそも、その日本人の無意識とはなにか。それは日本国憲法の成立をめぐる日付に関係すると小森氏は述べる。日本国憲法が公布された1946年11月3日は明治天皇の誕生日である。この日付設定には、日本国憲法が大日本帝国憲法の改正であり、それゆえにこの時点における日本国憲法の制定主体は、大日本帝国憲法によって唯一その改正を許されていた昭和天皇であったことが示されている。それが日本国憲法内の規定によって国民へと変更されたのが、施行日である1947年5月3日である。すなわち、この半年間には主権が天皇から国民へと移行する「革命」が起きていたのであり、その主権移行を忘却しているのが日本人の無意識である。では、いかにしてその無意識は形成されたのか。換言すれば、いかにして天皇への信奉が戦後日本に残り続けたのだろうか。

日本国憲法公布からおよそ1年さかのぼる1945年10月4日、GHQによって伝えられた人権指令は天皇制へ動揺を与え、一刻も早く天皇の「天子」としての権威を用いて兵士たちの魂を英霊化しなければならないという危機感を日本側にもたらした。言うまでもなく、近代天皇制における天皇とは、政治的な統治権だけでなく「天子」としての宗教的権威に担保されるものでもあった。そこで昭和天皇は、同年11月12日には伊勢神宮を参拝し、現人神として祖先神に終戦を伝える。そして同月20日には靖国神社に参拝し、戦死者の英霊化を行う。これは翌月12月15日にGHQによって神道指令が出される直前のことであり、事実上、天皇の宗教的権威の最後の行使となった。

昭和天皇はこのように、神道指令直前に戦死者の英霊化を果したことによって、生き残った日本人たちからの感謝の対象であり続けた。彼らの感謝の念の根本には、自らが生き残ったことに対する死者への負目があったと小森氏は解く。すなわちここで完成したのは、現人神たる天皇の背後にいる死者たちへと崇拝=懺悔を向けるために、生者が天皇制へと収斂していく構造であり、それは同時に生者たちが、死を最大の免罪符として、死者の侵略戦争および加害行為への責任を不問にする構造でもあった。図らずも1947年5月3日は、日本国憲法施行日と東京裁判の開廷日という2つの意味を担うことになる。この日付が担う二重の意味にはまさに、戦後日本において裁かれる生者たちと、裁かれなかった死者たち、および彼らを英霊化することによって存続する天皇の存在が明視されうる。

小森氏の指摘は、これまで戦犯の合祀でもって問題化されてきた靖国神社を、そもそもの死者に対する弔いの構造自体において問題化するものである。それはたとえば、死者の責任を問う行為となる従軍慰安婦の告発に対する国民的反発をも形成してきたと氏は述べる。そこで、だからこそ憲法施行における「革命」の意識化によって、死者も含めた責任を主体としての生者が問うていくことが重要であると提起された。具体的には歴史認識とそれをふまえた教育に課される課題である。小森氏の言う「革命」によって主権を担保された「国民」という主体が、どの程度死者の責任を問うたり償ったりすべき主体の画定に寄与できるのかという点などについてもう少しお話を伺ってみたかったが、充実した内容ゆえに時間が足りなかった。今後の課題として報告者自身でも考えていきたい。

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報告日:2017年5月27日