2017年度第一回・都立高校での教育現場をめぐる研修 報告 吉田 直子

2017年度第一回・都立高校での教育現場をめぐる研修 報告 吉田 直子

日時:
2017年4月15日(土)
場所:
潮来ホテル(茨城県潮来市あやめ1-10-7)
主催:
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト2「共生のプラクシス──市民社会と地域という思想」
協力:
東京都立雪谷高等学校

本研修は、一般社団法人「子どもの成長と環境を考える会」と本学の梶谷真司先生のサポートにより、2016年度から始まった東京都立雪谷高等学校への教育支援の一環として実施された。報告者は、昨年7月に同高校で行われた「哲学対話」に関する教員研修に参加したが、今回は新入生オリエンテーション合宿の中で実施された、高校1年生の哲学対話のファシリテーションを担当した。

哲学対話は、合宿2日目の午前中に行われた。ファシリテーターとして参加したのは、報告者を含め外部から参加した社会人及び学生24名である。これに雪谷高校の先生方数名もファシリテーターとして加わった。まず梶谷先生から「哲学する」ことの意義についてショートレクチャーがあり、哲学対話とは「問う」「考える」「語る」「聞く」という学びの基礎をすべて含んだ実践であること、「分からないことを増やす」ための営みであることが説明された。また実際に対話を行う際のルールとそこで使用するコミュニティボールの使い方についても合わせて説明がなされた。

次に、10名1組で輪になっていた生徒のグループにファシリテーターが加わり、各グループ内でさらに5人1組に分かれて質問ゲームを行った。質問ゲームとは、質問に答える役割の人を一人決め、他の人はその人に対し、制限時間まで順に質問をし続ける、というものである。哲学対話では、通常の対話以上に他者に質問する場面も多いことから、「質問をする」という行為に慣れる目的でアイスブレイク代わりに取り入れることが多いと聞いた。余談ながら報告者は、昨年の教員研修や今回の研修の事前打ち合わせでもこのゲームを経験しているが、確かに他の参加者に対する親近感はぐっと増す。しかもファシリテーターの能力や技能がさほど高くなくても実施でき、やり方さえ分かれば参加者だけでも簡単に行うことができる。哲学対話が終わった後も引き続きコミュニケーションをとりたくなるような共通の関心が見つかる場合が少なくないこともメリットとして挙げられるだろう。

質問ゲームのあとは、今回の哲学対話のための「お題決め」を行った。生徒はそれぞれ、グループのメンバーと対話してみたい「問い」を準備してきていたため、それを順番に紹介したのち、多数決で「お題」を決めた。他のグループの中には「…はなぜ~なのか?」といった、ものごとの本質を探るような問いをたてて対話を行ったところもあったようだが、報告者のグループは「LINEでの会話を上手く終わらせるにはどうすればいいか」という問いが選ばれ、そこから45分間哲学対話を行った。最後は、一人ずつ簡単に感想を述べ合って、この日の哲学対話はお開きとなった。

今回の参加を振り返り、印象的だったことを二点述べる。一点目は「ただ聞く」だけという参加の可能性を改めて実感したことである。哲学対話では、通常のディスカッションやディベートとは異なり、発言せずに聞いているだけでもかまわないというルールがある。報告者も、どちらかといえば他の人の発言を聞いてひとりであれこれ考えることを好むタイプである。また「グローバル人材の育成」という旗印のもと、積極的な自己主張を伴ったコミュニケーションを生徒に求める最近の学校現場の風潮に違和感を覚えているほうなので、「ただ聞く」という参加の仕方もありだと頭では理解している。しかし実際のファシリテーションの場で、全く発言しない生徒がいると、一部の生徒たちだけで行われる会話に疎外感を感じて、発言する気力を無くしているのではないかと心配になり、つい介入してしまいそうになる。今回も全く発言しない生徒さんが数名いたため、ファシリテーターという立場上、気になりながらも対話を進めた。しかし最後に一言ずつ感想を述べ合ったとき、最も長い感想を述べたのが当の生徒さんたちだった。ほかのメンバーの話を聞きながら私はこんなことを考えていました、などと話す姿に、「ただ聞く」という参加の仕方をきちんと担保することの重要性を改めて実感させられた。

二点目は、哲学対話を行う際のテーマ設定の難しさである。一概には言えないが、今回の報告者のグループが設定した「LINEでの会話を上手く終わらせるにはどうすればいいか」といった問題解決型のテーマの場合、最初はメンバーからひととおり提案が出されるかたちでそれなりに対話は進むのだが、最も妥当な解決策らしきものがメンバー間で共有された時点で対話が終わってしまうことが多い。功利性や合理性のレベルで対話が終了してしまうのである。報告者のグループでも、実行可能な提案が共有されたあとは、(対話が途切れてしまわないよう、おそらく生徒たちが気を使って)SNSを利用するときに困っていることが提起されては解決されて、ということを数回繰り返したところで終了となった。途中で「そもそもLINEでの会話が上手く終われないとなぜ不安になるのだろう?」といった、問題解決型ではない問いを投げかけてみたりもしたのだが、ほとんど広がらなかった。今回の場合は、新1年生の仲間づくりという側面も強かったため、「哲学する」ことはそこまで意識しなくてもよいと言われていたこと、またこの対話を通して「自分が困っていることは、他の人も困っていることだということを知って安心した。これからは困ったことがあったら、ひとりで抱え込まずみんなに相談したい」といった感想も出ていたことから、これはこれで意味があったのだろうと思われる。ただ特に学校現場において、「分からないことを増やす」ような対話の場をつくるときの、テーマ設定のあり方についてはもっと考えてみたいと思った。

雪谷高校の新1年生はとても初々しく、素直な生徒さんが多いという印象を受けた。突然やってきた、外部者である我々を温かく迎え入れ、またさりげなく気を使ってくれているのが伝わってきて、非常にありがたかった。他のファシリテーターも哲学対話を通してさまざまに刺激を受けたようで、終了後の振り返りでは、新しい発見があった、こんなことを考えさせられた、といった報告が相次いだ。報告者自身も、自分は高校入学時にどんなことを考えていただろうかと遠い過去を振り返りながら、生徒さんたちのやりとりを聴く中で、自身の思考がリフレッシュされていくような感覚を味わった。こうした体験を、教員という立場で積み重ねていくことの意義もまた大きいのではないだろうか。今後も学校現場で哲学対話がさらに広がっていくことを期待したい。

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報告日:2017年5月2日