Francesco Di Iacovo教授講演会 “Agriculture and Human Values in an Urbanizing Society”報告 佐々木 裕子

Francesco Di Iacovo教授講演会 “Agriculture and Human Values in an Urbanizing Society”報告 佐々木 裕子

日時
2016年9月20日(火)16:00 - 17:30
場所
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーション・ルーム3
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト2「共生のプラクシス──市民社会と地域という思想」

持続可能な農業開発、農業共同体構築についてのディ・イアーコヴォ教授の調査・実践プロジェクトは、2000年前後からトスカーナ地方で開始されたという。世界経済の変化が地方経済にも影響を及ぼし、社会福祉の削減、コミュニティの消滅といった問題が深刻化していたことがその背景にある。このような状況に対しては「革命的な解決」が必要であり、「社会変革・移行」の仕組みが構築されるべきとされた上で、農業や地方共同体は持続可能性を増幅させる性質をもっており、とりわけソーシャル・ファーミングの実践は地方共同体を支えるための社会変革の重要な一例として位置付けられると紹介された。

ディ・イアーコヴォ教授によれば、ソーシャル・ファーミングは、レジリエンスを高め、共同体に根差した価値観を促進させるものであり、それに関わる人々に社会的なサービスと人間的な価値をもたらすという。その特徴としてあげられたのは、国家の介入や市場競争といった枠組みとは離れた別の(besides)動きでありながら、必ずしも公的な資金と無縁ではないという点である。それは多種多様なセクター間の中間で、あるいはそれらを横断しながらなされる実践なのだと説明された。「革命的」「社会変革」といった言葉の選び方は伝統的な資本主義体制への批判や抵抗の営みを感じさせるが、この時にソーシャル・ファーミングに見出されるのはそこから離れた労働や経済のモデルとしての可能性でありつつも、国家か無政府か、都市か地方か、公的資金の注入か自律的な資金獲得かといった単純な二分法を問い直し、それを越えた価値観を創出しようとする試みであることに注意が必要であると印象付けられた。

いわゆるグローバル化、新自由主義化する社会経済状況は、国家の財政破綻、大企業や大農場を中心とした経済活動、企業税の緩和と社会福祉の削減といった一連の「悪循環」のなかで、貧富の差を再強化あるいは拡大させ、特定の人々を労働市場から再排除する。だからこそ「福祉国家」を復活させようというのではなく、様々な市民活動や社会的セクターとの協働を通じての、「福祉社会」の構築こそが新たに必要だと本講演では指摘された。ディ・イアーコヴォ教授によれば、ソーシャル・ファーミングはこのような社会再編の営みの一部であるが、ここでの農業は、市場商品としての食物を生産するための単なる手段ではなく、新たな社会モデルへと移行するための重要な要素を複数に帯びた営み、すなわち「多機能農業」として再定義されるべきものとなるという。競争市場から手を切る仕方での、生産体制、流通手段の確立、商品価値の創出と発信、それらを通じた地域経済共同体の構築といったものも重要な側面であるが、本報告にあたり特に注目したいのは労働市場から排除された人々を受け入れる「社会的包摂」としての側面である。

この講演ではそのような試みの事例として、精神的なディサビリティをもった女性の農作業参加の事例が紹介された。自然を相手にした農作業では、それぞれの労働者の能力に応じた様々な作業が必要なものとされ得るし、特定の作業だけを得意とする作業者であっても──市場の求める「柔軟な」労働ニーズに対応できない労働主体であっても、自分の作業による作物や農場の変化を確認し、またその成果を協働作業者たちから評価されることを通じて、自尊心や責任性を獲得していくことができる。このような労働の現場につながっていった人々のなかには、障害を持つ人々、薬物使用者、元受刑者、移民として入国した人々が多くおり、その生存が可能とされてきたという。つまりソーシャル・ファーミングの実践は、社会体制や経済体制の問い直しや再編という領域にとどまるだけのものではなく、誰が生存し得る存在であるか、その生存をどのようにしてより可能にできるかといった問いに具体的に鋭く切り込むものでもあるのだ。あるいはそのように社会的弱者とされ、排除されてきた人々の生存に真摯に取り組みながらなされてきた営みであるからこそ、これまでの構造を変革する可能性を秘めたものとして評価することができるとも言えよう。

このようにして示されるのは、単なる国家や市場からの分離にもとづくいわばユートピアの建設ではないような地域共同体の構築である。その実践はすでに一定の功績をあげていると言えるが、それでも数点の疑問が残る。

まず一つには、「福祉国家」の復活ではなく「福祉社会」の構築と言った時に、それがネオリベラルな体制における、福祉の私化/民営化(privatization)の強化という流れと果たして無関係なのかということである。国家の介入を受けない仕方での経済共同体というのは、一方では国家権力を強化するのではない仕方の共同体構築のモデルを提示すると言える。とはいえ他方では、それ自体がネオリベラリズムの筋書きの一幕であり、個人あるいは共同体が自律的に資本を確保すること、その上で商品の生産を行なうということは、むしろ公的資金の投入を必要としないという点において評価づけられる側面をも持つと言えるだろう。この講演では、公的資金や公的なセクターとの断絶ではなく、それらを有機的に横断することの有効性が示されていたが、それがいかにネオリベラルな体制のもたらす危機を乗り切るための「フレキシブルな」スキルとしてではなく、その体制を覆すための磁力に成り得るか、ネオリベラルな体制がむしろ再強化する公私の枠組みへの批判として機能し得るかについては明確に示されなかったため、いましばしの議論が必要になると感じられた。

またもう一つには、このような変革的かつ包摂的とされる実践において、それでもやはり既存の排除の枠組みについての批判的視座が十分であるかということである。先述のディサビリティを持つ女性の事例に関連して、報告者は、このような共同体において女性が一人で滞在することは安全なのか?と質問をした。被害報告は特になされていないという答えは多少の安堵を感じさせたが、それは必ずしも加害が全く無かったことを約束するものではない。とりわけディサビリティを持つ女性が性被害・性犯罪に対してよりヴァルネラブルであるという報告はこれまでに数多くなされており、予防的かつより安全な環境の構築、加害があった場合の、プライバシーが適切に守られた上での告発手続きや、被害者のケアのための支援態勢の確立の必要性は強く訴え続けられている。持続可能性や社会変革性が可能になるとされる場であるからこそ、既存の差別軸やそれのもたらす危険が再生産されていないかを注視する営みが必要であり、更なる取り組みがなされることが切に期待される。

国家や市場にまつわる既存の枠組みを離れた(besides)ものとしてのオルタナティブな営みは、オルタナティブな価値を持つという点において、差異性やニッチなニーズにもとづいた市場原理の強化とは袂を分かち難いものとなり、むしろそこに取り込まれる要素を強く帯びるものとなる可能性はぬぐいきれない。ゆえにこそ、単に接近するか離れるかという枠組みを問い直すことが必要となる。現時点で想像し得るオルタナティブが、それでもやはり単なる経済利益追求のための多様性や多文化主義の称揚の一幕となってしまうのであれば、既存の枠組みの傍らにあり(beside)かつ、それから外れる(beside)という営み──接近とも分離ともつかぬ動きのなかで、オルタナティブの内実を注視しつつ、批判的な語彙や想像力を増やしていくことがまずは必要であろう。そのようにして耕された対抗的な視座、言説の土壌は、きっと次なる局面においてより豊饒な実りをもたらすかもしれないと期待しながら。

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報告日:2016年11月14日