都立高校での教育現場をめぐる研修 報告 吉田 直子

日時
2016年7月1日(金)14:50 - 16:50
場所
東京都立雪谷高等学校
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト2「共生のプラクシス──市民社会と地域という思想」

過日、梶谷真司先生とともに「哲学対話」の手法を用いた教員研修の現場の見学のため、東京都立雪谷高校を訪問した。雪谷高校の教員研修には、「子どもの成長と環境を考える会」の白井理事と梶谷先生が関わっておられるとのことで、「考える会」からも白井理事のほかに二名の方が見学に訪れていた。

報告に先立ち、本企画に対する報告者の興味関心について少し触れておきたい。報告者は、「他者との差異を認めるとはどういうことか」という問いを、教育学の文脈で考えることを研究の柱に据えていることから、参加型学習やワークショップ、ピア・エデュケーションの手法を取り入れた学校教育の実践にはもともと強い関心を寄せてきた。その延長線上で、哲学対話にも以前から興味があり、数年前に開かれたUTCP主催の哲学対話のワークショップや、一般人を対象とした哲学カフェにも何度か参加した経験もある。そのため、学校現場での実践事例を見てみたいという個人的な思いがあった。また教育行政の現場でも、思考力の涵養や児童生徒の主体的な学びに対する要請が高まっている。文部科学省の中央教育審議会は、2016年度内に予定されている学習指導要領の改訂にあたって答申をまとめているところだが、国立教育政策研究所による「21世紀型能力」(「思考力」を中核に、それを支える「基礎力」とその使い方を方向づける「実践力」の三層構造で構成される能力)育成の提言などを背景に、児童生徒が主体的・能動的に学ぶ方法として「アクティブ・ラーニング」を推進する方向を強くうちだそうとしているのは、その顕著な例であろう。教員免許状更新講習では、すでに今年度から選択必修領域としてアクティブ・ラーニングの研修が新たに設置されている。学校現場としても無視できないこのような流れの中で、哲学対話に対する教育関係者の関心も、今後さらに高まっていくものと考えられ、教育学を専攻する者としてはフォローしておきたいもののひとつでもあった。

今回の哲学対話は、教員研修という位置付けで実施された。雪谷高校では、梶谷先生のサポートにより、今年の新1年生が「新入生スタディ・キャンプ」と呼ばれるオリエンテーション合宿で哲学対話が実施されたとのことで、今回の研修はそれを他の先生方にも体験してもらうことを目的とするものだったが、おそらく先述のような文部科学省の教育改革の流れを受け、「哲学対話」の手法や考え方を実際の授業でもとりいれていくための下地づくりという意味合いもあったのではないかと推察される。この教員研修は合計3回行われるとのことで、今回は初回の研修であった。

研修ではまず、4人で一つのグループをつくり、「どんな人が好みか?」をテーマに、4人のうちの3人が残りの1人に対して代わる代わる質問をする、というアクティビティを行った。これは場をあたためるためのアイスブレイクの役割を果たすと同時に、この後に行う哲学対話に向けてのウォーミングアップにもなるとのことだった。次に二つのグループに分かれて輪になり、「望ましい授業とは何か」をテーマに対話を行った。最初に、もし何の制約もなければ実践してみたい理想の授業について1人ずつ順に意見を述べ合った。報告者が参加したグループでは、「学習指導要領に縛られずにもっと自由に教えたい」、「社会とのつながりを意識させたい」、「学問をすることの喜びを伝えたい」といった声があがっていた。全員が発言した後、報告者のグループでは「お金を稼ぐことを教える」ための授業の是非についてという、やや挑発的な問いを中心に対話が続けられた。校長先生が加わっていたもう一方のグループでは、校長の学校運営方針その他に関して、他の先生方の質問が集中したとのことだった。最後に全体でふりかえりを行った。いつも顔を合わせているけれど、教員同士でじっくりと話す機会はなかったのでよかったという声が多く聞かれた。

考えさせられたのは、哲学対話を行う目的とは何か、ということである。「~することの目的は何か?」というのはごく一般的な問いである。何の目的もなしに行動するのはモチベーションも保ちにくい。ただし仮にその問いに答えが与えられたとして、第三者ないしは外部が規定した「目的」に縛られて行動しなければならないのだとしたらずいぶん窮屈な話ではないだろうか。もちろん企画者に目的を尋ねることで実践への理解が深まることはある。しかし他者から与えられた「目的」に自分の行動を合わせる必要はないはずだ。まずは自分で実践し、何らかの気づきやおもしろさの発見や実感を通して、自分なりの目的を見出したり、創造したりすることで、「なぜこれをするのか」という問いが自己の内部でさらに深まっていく。とりわけ哲学対話の実践は、そうした経験を確認しやすい場であるように思う。また、他者から与えられた「目的」から自由になることは、個々の場面に応じた柔軟な目的設定にもつながるだろう。例えば今回、哲学対話の目的を尋ねる声や、グループでの哲学対話が、先生方が質問し、校長先生が答えるという「質問大会」になってしまったと反省する声があった。しかし少なくとも哲学対話という場を通じて、校長先生や他の先生方が普段どのようなことを考えているのかを知る機会となったのなら、それはそれで意味があったと考えてもよいのではないか。ある一つのテーマを軸に、複数の人々の間で形式的に「対話」を成立させることが「哲学対話」の目的ではないからである。このことは、対話の宛て先は、実は自分自身なのかもしれない、という感覚にもつながっている。

もう一つ考えさせられたのは、安心・安全な場づくりの重要性である。これまで一般に行われてきた哲学対話は、「哲学対話をしたい人々」が自主的に参加するものであった。哲学対話のルールも把握している人々である。しかし全員参加を前提とする学校教育の現場で行うには、一般の哲学対話とは少し異なる配慮が必要になるのではないかと思った。例えば、いわゆる教育困難校に在籍している生徒の中には、幼少期から受けてきた度重なる試練から身を守るために、未知のものや人に対してひどく防衛的になる者がいる。こうした生徒には「今まであまりしゃべったことのない人と4人組になってください」という指示が通用しない。極度の人間不信に陥っているため、自分の知らない人と接することに激しい抵抗を示すからである。また哲学対話では、相手の発言を茶化したり笑ったりしてはいけないなどのルールを周知させるが、基本的にメンバーが固定しており、かつ「空気を読む」ことを良しとする傾向が強い今の日本の学校文化の中で、それがどこまで守られるのかは甚だ心もとない。おそらく学校現場での哲学対話では、場合によっては、対話に至るまでの場づくり、すなわち「ここでは自分が思っていることを話してもいいのだ」ということを本人が納得できるような安心・安全な場づくりを徹底的に保証することが教員やファシリテーターに強く求められるだろう。とはいえ、ひとまずそうした場づくりを通して最低限の対話が可能になれば、今度は哲学対話の実践の重ねが更なる安心・安全な場の形成に寄与するというポジティブ・フィードバックが生まれることが予想される。こうした視点も意識しつつ、今後とも学校での哲学対話の実践に注目していきたい。

報告日:2016年7月15日