ショーイング公演「Komaba Square」報告書 半田 ゆり

IHSプロジェクト1「生命のかたちとしての演劇実践」授業成果発表 ショーイング公演「Komaba Square」報告書 半田 ゆり

日時
2018年1月21日(日)16:00〜18:00
場所
駒場キャンパスコミュニケーションプラザ3階 身体運動実習室1
構成・演出・指導
安藤朋子
出演
「生命のかたちとしての演劇実践」授業参加者
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト1「生命のかたち」

2017年度、プロジェクト1「生命のかたち」は2学期間にわたって「生命のかたちとしての演劇実践」を開講し、俳優の安藤朋子さんによるワークショップを行ってきた。2018年1月21日には、1年間のワークショップの成果として、ショーイング「Komaba Square」を駒場キャンパスにおいて行った。

安藤さんによるワークショップを貫いていたシンプルな原理は、「ゆっくり歩く」ことであった。それも極めてゆっくりと。具体的に言えば、5メートルを12分かけて。これは、安藤さんがかつて共に作品を作っていた演出家・太田省吾氏の手法から着想を得ている。ゆっくり歩くことによって、「歩く」という、多くの人が日常的に行っている身体運動は抽象化され、俳優が持っている性質──人種、年齢、身体的な特徴など──はそこから引き剥がされる。そうして残った抽象度の高い動きを組み合わせることによって、演劇であることの上に、もう1枚虚構のレイヤーを重ねる。このことを自らの身体を持って試み、知ることがこのワークショップの目的だったと言って良いだろう。

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ただゆっくり歩くことは容易なように思えるが、動作の全てを微分化するように細かく分解し、連続的に繋げてゆくことは、筋肉や関節に想像以上の負担を与える。慣れ親しんでいるはずの「歩く」ことが、「遅くする」というシンプルな速度の変化のみによって遥か遠くへと行ってしまい、履修者全員がそのような別次元の「歩く」ことへの慣れに多大な時間を費やした。それは身体的なトレーニングであると同時に、単なるスローモーションではない、虚構の時空間における身体の動きを、あくまでも演劇的な次元に持っていき、観ている人に理解されるかたちで見せることの鍛錬でもあった。

「Komaba Square」においては、ほとんどの出演者が2人組となり、広場に集まり、休息し、通りすがる人々を演じた。広場に様々な人々がやってきては去っていき、また新しい人々が来る。その積み重ねによって物語は構成された。それぞれのグループは旅の荷物が入ったバッグを運んでいたり、日傘をさしたり、行脚の途中で休んだりしていて、日常にありふれた振る舞いを見せる。しかしそこにはいくつかの非日常的な振る舞いもまた、散りばめられている。指した日傘を奪ってダンスする人。鈴と箒を持つ従者二人を連れた僧侶のような人物。バッグやキャリーケースの中の何かを狂ったように探し続ける人。それらのありふれていない振る舞いが、極めてゆっくりとしたありふれた振る舞いと重なり合い、日常のような日常でないような世界が展開された。

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筆者は「生命のかたちとしての演劇実践」に先立ち、同プロジェクトにおいて開講されたコンテンポラリーダンスのワークショップにも参加してきた。そのワークショップでは、ダンサーに何か具体的な役柄を設定することや、直線的に進行する物語を作り、それに従って出のタイミングや大まかな動線を決めることはしてこなかった。つまり、今回の演劇は、筆者が経験してきたダンスに比べれば、その抽象度はいくらか低いものだった。演劇とダンスという二つの身体運動の経験の中で、筆者は舞台における虚構性を担保するものとは一体なんなのだろうという問いを立ててきた。今回のショーイングは、そもそもそうした虚構性は、我々の生きる現実から明確に区別可能なことなのかどうか、という新たな問いを提示したように思う。ありふれた振る舞いも、速度を極端に落とすだけで抽象的なものとなる。あるいは、ありふれていそうでいて、ちょっとおかしな振る舞いが、前者とははっきりと区別できず、しかし一般的な身体動作の枠組みの中で把握しうるかたちで展開することもできる。そこでは、現実と虚構が渾然一体となっているような感覚があった。

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ショーイングにおいて、筆者は学生の1人と2人組を組み、重い荷物を運ぶ旅人の1人を演じた。1人が広場で休みたい素振りを見せるので、もう1人が仕方なく付き合ってあげる。2人は休息しながら、ダンスのようなものを踊り、遊び始める。そこに歩きスマホをしている人が現れ、彼とぶつかって2人は我に帰り、荷物を持って広場を去る。概ね決められていた設定はこのようなものだった。舞台の上では、2人は互いに役として出会い、設定にある程度従いながら、都度少しずつ異なった動きを即興で繰り出していく。しかしそのような役としての出会い以前に、そこでは日常の人間関係が影響を与えていた。即興がもたらす、常に不測であるという状況の中で、虚構の世界に身を置きながら、どこからか普段生きている現実が響いてくるような感覚があった。それは、私たちがプロフェッショナルな俳優ではないことからくる安定のなさであったのかもしれない。しかし、音響を担当してくださった劇団ARICAの演出家・藤田康城さんの言葉を借りれば、俳優ではない身体さえも、ある虚構の、演劇的な時空間を見せることができる、そのような人間の可能性をこそ、演劇は示しうる豊かさを持っているのだろう。そこに「生命のかたち」の1つのあり方があるのではないかということを、自らの身体を持って知ることができたように思う。