藤岡靖洋氏講演:「ジョン・コルトレーン没後50周年──生命の鼓動と音のかたち」 東風上 奏絵

藤岡靖洋氏講演:「ジョン・コルトレーン没後50周年──生命の鼓動と音のかたち」 東風上 奏絵

日時
2017年11月16日(木) 17:00 - 18:30
場所
東京大学駒場キャンパス18号館ホール
備考
入場無料・事前登録不要
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト1「生命のかたち」

この講演では,長年コルトレーンの研究を行ってきた藤岡靖洋さんより,ジョン・コルトレーンの生まれた環境や人種差別の激しかった当時の時代背景,アメリカにやってきたイギリスのロックブームの影響や,コルトレーンの音楽の歴史変遷等について,詳しくお話を伺った.

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コルトレーンの甥のFlying lotusの音楽を最近聴き始めたことをきっかけに会場へ足を運んだ私だったが,講演を通して,芸術に触れる際に様々な角度から歴史背景を学ぶことの重要性を学んだ.講演後に考えたことは主に以下の三点である.

1.過去の歴史を学び音楽に思いを馳せることと,その時代背景の中でリアルタイムの音楽を体感することの違い

講演会ではコルトレーンが生きた時代背景を教えて頂き,その時代の人々の様子を踏まえながら音楽を聴くことができた.しかし,それは同じ社会状況を共有した当時の人々が聞くコルトレーンの曲とはやはり別のものだろう.現在の日本の音楽は,"私は私らしく生きる"や"他の人の言うことは聞かない"のような,個人の生き方を歌ったものが多いという印象がある.コンサートや音楽フェスを通じて他者と場を共有できるとしても,その経験は基本的には音楽を聴く人一人に向けられている.そのような歌の中では,自分対その他大勢,一対多,の構図ができている.

一方,コルトレーンの音楽をリアルタイムに聴いていた人々は,皆対敵,多対多,の構図の中でライブ演奏を聴きに行っていたのではないだろうか.例えばフォークソングには,平和への思いを歌う歌が多くあるが,そこでは音楽を聴く主体も,個というより何か複数的なかたちをしていたのではないか.また,昭和時代の歌声喫茶が現在は無くなりつつあることに象徴されるように,かつては音楽を鑑賞するという経験そのものが,現在の私たちのような若い世代の想像を超えたものであったのではないかと思われる.

2.音楽の役割:音楽を通した人々の思いの共有と,音楽家自らの思いの昇華

講演会では,子どもが犠牲になった悲惨な事件など,当時の黒人に対する激しい人種差別に対し,コルトレーンが曲を作ることで静かに抵抗をしていたことを知った.曲のタイトルと演奏に込められたコルトレーンの思いが共有されて初めて,彼の音楽が人々を結ぶ力となったのだと感じた.一方で,コルトレーンは直接的に歌詞などで人種差別への反発を唱えたわけではなく,その思いの表現は,タイトルや演奏のやり方など,明示的でない形で表されていた.そもそも人は,必ずしも曲の意味,主義やセクシャリティなどの音楽家の個人的背景を知った上で聴くかどうかを選ぶ訳ではなく,単に音楽に惹かれて聴くこともある.ただコルトレーンを平和と結びつけて理解するだけではなく,彼が音楽家として,平和への思いや彼自身の悲惨な体験をどのように創作へと昇華させていったのか,また,彼の演奏を聴く人はそれをどのように,どんな次元で感じ取っていたのかを知ることが重要ではないかと考えた.

3.一つの困難に対するアプローチの違い:悲しい表現と明るい表現

コルトレーンの曲はもちろん決して暗いものばかりではないが,講演会では悲しい思いをそのまま曲にしたような曲も聴くことができた.一方で,悲しみを表現するために,敢えて明るく見える表現を選ぶ方法もある.一つの困難や強い思いに対して,アーティストがどのような表現を選んだかということも,歴史背景と合わせて学んでいく必要があると感じた.

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最後に,今回の講演から得られた考察が,自身の研究にどのように関係するかを考えた.私の研究分野は子どもとふれ合うロボットの行動デザインである.子どもとふれ合う上でロボットに必要な機能を考え実装し,実際に子どもとロボットのふれ合いを観察し評価している.

私が疑問に思ったのは,将来ロボットなどの人工物は,コルトレーンが彼の音楽を通じて果たしたようなことができるようになるかということである.つまり,人間と分かち合える形のもとで自分や他者の悲しみの表現を行う・行えるようになるのだろうか,という問いである.

現在のロボットは,人や子どもを笑顔にすることを目指して研究が進んでいる.しかし,ロボットが人に寄り添う未来を真剣に考えるならば,人の心の痛みへの共感や,ロボット自身の悲しみ表現など,ロボットが人間的な認識における暗い部分を人間との関係においてどのように担うことができるかについても考える必要があるだろう.

その実現のためには,伝える側(ロボット)と受け取る側(人間)とで2つの条件が満たされなければならない.1つはロボットが悲しむ理由を持つこと,2つ目はロボットの悲しみに,人が納得・共感できることである.そしてどちらの条件も,人と人工物がどこまで近づくか,ということが大切な問題であると思われる.

現在のところロボットは,自分にとって大切な人が元気のないことを感じとったり,大切な人を喪失することの重大さを知覚したりといったことがまだできない.そもそも,ロボットが「大切な人」を認識するとはどういうことであるのか,まだ明確な指標を与えることはできていない.

課題の多いロボット側からのアプローチと比べて,人間の側からのアプローチはどうだろうか.壊れてしまった犬型ロボットアイボを供養するという事例のように,ある時点で,人にとってロボットが単なる機械でなくなる場合がある.このような形で,ロボットの身体に意味が与えられることで,ロボットの存在に深みが増し,人がロボットの「悲しみ」に共感するような事態は容易に起こり得る.

ただ,ある人とあるロボットの間にそうした「関係」が構築されたとして,他の人から見てもそこに真の意味で共感や交流があると言えるかといえば難しい.ロボットの「悲しみ」も「死」も,現在の常識からみるならあくまで「想像上の存在」でしかないからである.当然のこと世間には,ロボットとふれ合う人姿を人形遊びとして揶揄する人も存在する.ここには「想像上の存在」を,人がどれだけ受容できるかという問題がある.

しかし,今回の講演で感じたのは,人とロボットの不確かな「関係」よりずっと自明な,皆が結びつく可能性を秘めたアーティストと鑑賞者の関係においても,実は時代の隔たり,創作の動機と創作された作品のずれ,演じる者と聴く者の経験の差異など,様々な次元の不一致が含まれており,そうでありながらそれは人々を結びつける力となり得ている,ということであった.一見揺るぎない,作品を通したアーティストと鑑賞者の関係構築も,実のところ様々な次元で「想像上の存在」を経由しており,それを人どれだけ受容できるか,信じられるか,という不確定な事象を孕んで成り立っているのである.人とロボットの関係を考える上で,この観点からの学びは,大きな手掛かりとなるかもしれない.

今後も,様々な歴史背景を通して,創作そのものとアーティスト,鑑賞者の関係を学んでいき,ロボットと人の関係をどのようにデザインしていくか,という問いを考え続けていきたい.