プロジェクト1「新しい表現を生みだすためのリサーチ&ワークショップ」報告 田邊 裕子

プロジェクト1「新しい表現を生みだすためのリサーチ&ワークショップ」報告 田邊 裕子

日時
2015年6月21日(日)-24日(水)ほか
場所
広島県福山市
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト1「生命のかたち」

教育プロジェクト1「生命のかたち」では、内野儀教授のコーディネートのもと、高山明氏、小泉明郎氏の2名のアーティスト、およびキュレーターの住友文彦氏をお迎えし、「新しい表現を生みだすためのリサーチ&ワークショップ」を二年度(2014-15年度)にわたって実施した。

本リサーチ&ワークショップは、科学的な調査や分析とは異なる、特定の対象への強い関心にもとづく芸術制作の現場に接するために、演劇と映像の分野で注目される二人のアーティストが関心を持つテーマについて、共にリサーチを行ない、さらに制作の現場を体験することを目的としたものである。

銀座のメゾンエルメスで開催された「境界」展(高山明+小泉明郎)を訪れた人々で、奇妙な気持ちにならないひとはいないだろう1。賑やかな街並みのなかでも一際輝くガラスの建物がメゾンエルメスなのだが、その店内に入り(その時点で私にとっては既に非日常的な体験で、まるで場違いに感じて早歩きをして通り抜ける)エレベーターで上がると、降りたフロアには都会を彩るバッグやアクセサリーの代わりに、大きなスクリーンが点在する、静かで緊張感のある空間が広がっているのだ。

わたしが多文化共生・統合人間学プログラムの学生として、この展覧会に向けた小泉明郎さんの制作現場を見学させていただいたのは、2015年6月21日から24日の、広島県福山市でのことだ。カメラの被写体となるのは田中伸弘さん。福山市出身で同市在住だが、北海道の大学に通っていた際に交通事故に遭い、記憶障害を持つようになった。生死の境目の状態から、大学卒業、就職も達成したが仕事は長く続かなかったという。今は子どものための福祉施設の運営という自分の道を見つけ、日々精力的に取り組む一方、日常生活の些細なことにも困難なことがある。たとえば、目は片目しか機能しておらず、耳も左耳はセミの鳴き声のような耳鳴りがしてよく聞こえない。精神的な面でも毎日欠かすことができないことがある。眠りにつくための難を少しでも軽減するために、毎晩数時間を焚き火や水泳に割き、心身の緊張をほぐしているそうだ。実家の自分の部屋にずっと引きこもっていたこともあった。事故後15年に及ぶはかりしれない苦しみと悔しさは、田中さんの軽やかな語り口からはほんの時折しか顔を覗かせず、けれど確かに伝わってきた。

撮影場所は公民館の一室。照明の当て方と構図によって、まったく違う空間にいるように演出されていく様子は興味深かった。田中さん自身にも演出が施される。小さな声で繰り返す様子を確実に録音するためのピンマイクを襟の辺りにつけ、服は時代を感じさせないデザインの紺のシャツ、眼鏡も時代性を色濃く反映するため外してしまう。演出が施されると、田中さんに長ゼリフを覚えてもらい、その様子をひたすら撮影するという作業が始まった。その台詞とは、第二次世界大戦中の中国での日本軍の加害証言だ。いつの誰の話かわからないように編集されているため、読んだり聴いたりしても、現在に対して具体的に何年前であるかということや、加害者や被害者の具体的な民族的・政治的立場に意識は向かない。このようなテクストを覚えてもらって、その様子を撮影し観察しながら、田中さんができることを見つけていくというのが、撮影初期段階の小泉さんの計画だった。

ihs_r_1_150621_research_01_image1.jpg

田中さんにとって、この長台詞を覚えるのはとても難しそうで、繰り返し言ったからといってより良く記憶されるわけでもなさそうであった。田中さん自身の説明によると、頭にデータは入るのだが線になりにくく、しかもデータを入れる入れ物は小さく、長時間詰め込み続けると入れ物自体が壊れてしまう感覚になることもあるという。その上、田中さんには温もりのない「記録」しか残らない。「記憶」にあるような、体験者自身が持つ温度が「記録」にはない。どんなに昔のことも、すこし前のことと同じように感じられ、一枚の紙のうえに記される。田中さんの持つあらゆる記憶は、無機質で時間的距離のない「記録」にすぎず、今回の制作では、その記録作業が行われる田中さんの頭のなかこそが現場であった。続けたほうがいいのか、休んだら忘れてしまうのか、ひとつひとつのそういった判断が田中さんの状態次第の賭けである。実際、休憩を入れたら全て忘れてしまったこともあった。

過去の証言を暗唱することが田中さんには困難だ。何者かが記憶を辿って言語化したものを別の者が覚えて語り直すということが、他人の言葉から他人の記憶へと遡り、その様子を自分に取り込む作業だとしたら、田中さんは語りの言葉をもとに記憶の様子をイメージすることができていないのかもしれない。このような田中さんの様子を小泉さんはひたすら撮影し、インプットとアウトプットを順番に指示しながら実験を繰り返す。そうやって証言者が言葉で描く情景が、田中さんの記憶の揺らぎと共に揺れる瞬間を捕えようとしていた。ふと、田中さんに戦争を忘れた日本を重ねているのだと感じたが、ただただ固唾をのんで見守り指示に従って作業をするその時のわたしには、個人と歴史と国家のそれぞれの層が作品としてどのように現れるのか、想像もつかなかった。

カメラに映らない小泉さんが、カメラの前で全てを記録されている田中さんに指示をして言葉を繰り返させる様子は暴力的だとさえ感じたが、完成された作品にはその様子はすっかり出てこない。では代わりに何が強調されているのか。それは普段よく耳にする物語の重要なキーワードだった。作品中、「わたしは」という主語のあとに続く言葉がなかなか出てこず、「わたしは」がなんどもなんども繰り返される場面がある。語りのなかの主体、しかし記憶が不確かな「わたし」は、自分が何をしたかを語ることができず、物語をうまく進めることができない。もうひとつ、同じように待たされるのは「ちょうどそのとき」というフレーズを発する場面だ。物語の進行のなかで急展開が起こることを強調するこの表現は虚しくも繰り返され、どんどん空っぽになっていく。

空っぽといえば、作品内で語られるあらゆる言葉は、ただの音のように口から流れ出る。確かに身体を使って声として発されているはずの言葉は、まったく実感の伴わない、肉体化されていないものとして観る者の耳に届くのだ。しかし、その亡霊のような、見えそうで見えない語りの虚構主体に対して、田中さん自身が発する呻き声は生身の肉体がそこにあることを強烈に主張するものである。この呻き声は、田中さんが次の言葉を上手く思い出せないときに腹の底から吐き出された苛立ちだ。それはとても恐ろしい声で、彼自身の中から出てきていることが明らかなために、先ほどまでの空虚な言葉と全く違って豪速球のようにスピーカーから飛んでくる。

田中伸弘さんという語る主体と、語りの中で思い出されようとしている不安定な主体の共存は、生身の役者によるフィクションの上演そのものだ。田中さんが長いあいだ身体のなかに抱えてきた、掴みどころがなく解消されえない何かが、彼自身によるフィクションの上演を通して表出する。そしてその上演は、田中さん自身の言葉、「真っ白です」という報告によって幕を閉じる。わたしにとって、それは制作現場から続いていた物語を結ぶ一文だった。こうやって制作から終演までの過程を、じっくり丁寧に、とても近い距離で観察し、作品の要素を段階的に吸収させていただいたことは大変貴重な体験であった。繊細な感覚と判断が求められる制作現場に、私たち学生の存在を許してくださった小泉明郎さんや撮影スタッフの方々、作品への協力という大きな決断をし、個人的な日々の生活のことも快くお話ししてくださった田中さんに改めてお礼を申し上げたい。

ihs_r_1_150621_research_01_image2.jpg
高山明+小泉明郎展「境界」(期間:2015 年 7 月 31 日~10 月 12 日、会場:銀座メゾンエルメス フォーラム、主催:エルメス財団、協力:東京大学 多文化共生・統合人間学プログラム) http://www.maisonhermes.jp/ginza/gallery/archives/10076/

報告日:2015年9月13日