荒井裕樹先生講演会 「『障害者アート』を『見る-見せる』こと」報告 石 田

荒井裕樹先生講演会 「『障害者アート』を『見る-見せる』こと」報告 石 田

日時:
2015年5月12日(火)13:00-15:00
場所:
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1
講演:
荒井裕樹氏(二松学舎大学)
司会:
石原孝二(総合文化研究科・IHS)
主催:
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト3「科学技術と共生社会」

本講演は、展覧会『境界を引く⇔越える』(2015年4月25日~6月28日、東京大学駒場博物館)の一環として、荒井氏をお招きし、障害者によるアートの現状とその意義を論じたものである。同氏には、4月25日にも博物館内で講演をしていただき、そこでは精神疾患の現場でアートが果たす役割について示唆が与えられたが、こうした同氏の観点が、今回の講演において具体的な問題提起として像を結んだ。本報告では、荒井氏が提起した問題、すなわち医療とアートの対立という問題を概観したのち、報告者の関心に引きつけてこの問題に一定の視座を与えたい。なお、本報告の背景となる前回の講演内容に関しては、紙面の都合上本報告では扱わないので、当該記事を参照されたい。

荒井氏は障害者の作品を集めた展覧会に関わっているが、これに対して医療従事者から次のような異議が寄せられることがある。それによると、障害者が行うアートは作業療法の一環であり、支払金額に対するサービスであるにもかかわらず、展覧会という評価の場が、絵のうまい利用者に、そうでない利用者より多くの利益を与えてしまう。つまり、絵を描くことを医療サービスに組み込むならば、評価も含めて平等であるべきだ、と主張されているのだ。同じように、セレクションに落選すると利用者が傷つくので、障害者の作品に優劣をつけるべきではない、という主張がなされることもある。荒井氏はこうした態度を「医療の論理」と呼び、平等の理念に必要以上に縛られているのではないかと指摘する。そして、このようなこだわりから解放され、素直な態度で楽しさを追求する自らの態度を「アートの論理」と定義する。

2つの立場のコンフリクトは、別の場面でもあらわになる。「医療の論理」は、治療対象である特徴(症状)を、欠損や悲劇と捉える。これに対し、「アートの論理」が患者の作品に向き合うとき、それは作品でしかなく、したがってどの作品も、うまいか下手か、面白いか平凡か、などと評価や批評の対象となり得る。ここにはすれ違いが生じており、「医療の論理」が、アートを「苦痛であるはずのエピソードを、娯楽の対象として消費する」悪しき営みだと告発するのは、こうしたすれ違いによるのだ。加えて、アートの意義を重視する精神科医の場合には、事情はさらに複雑となる。アートを治療に使いたい精神科医にとって、患者の作品は患者の状態を知るツールであり、カルテに等しいのだ。カルテを衆目に晒すことに医療従事者が抵抗を覚えることは、我々にとってもよく想像できる。これとまったく同様に、患者の作品を公開することは、そうした精神科医にとっては許しがたい悪事なのである。

衝突は避け得ないのだろうか。荒井氏は必ずしも悲観的ではない。その根拠として、ある閉鎖病棟に絵が飾られた事例が示される。一般に閉鎖病棟では、自傷・他傷を未然に防ぐため、そうした行為に使われる可能性のあるものをなくすことが重要である。つまり、通常の額縁に入った絵は飾れないのだ。こうした状況下でも、はめ込み式の窓にステンドグラスで絵を表現することで、閉鎖病棟内に絵を飾ることができたのだという。このとき、ステンドグラスという第三項を介して、医療とアートがそれぞれの理念を達成できているのだ。このようにして医療とアートの溝を埋める媒介項が他にもあるはずだ、と荒井氏は期待を込めて述べる。

さて、本講演で扱われたコンフリクトは、医療とアートの関係に特有だろうか。幸福と平等が倫理学における優先順位を争ってきたという歴史を鑑みれば、それが端的に現れた一例としてこれを読み解くことは可能だ。さらなる一般化が許されるならば、当プログラムが対応しようとする諸々の文化的対立(文理、異文化、性差など)を、この事例を検討するための比較材料としても差し支えないかもしれない。ところで、これらの事例に共通して、対立を和らげ共生を図るためには、いずれの立場も相手に対して自分の主張をうまく説明する言葉を持つことが有効だろう。すなわち、自然科学が自らの理論を人文科学の文脈で理解できる形に翻訳して説明する(もしくはその逆)ことと同様に、医療に対してアートが「アートの論理」の有用性を医療の文脈で提案し、同時に、アートに対して医療が「医療の論理」の意義をアートの文脈で示すことが求められるのだ。こうすることで、「治療」対「癒し」というイデオロギー論争に陥ってしまうことを避けるだけでなく、双方が補完しあうことで、おそらく共通に抱かれているであろう共生の理念に一歩近づきうる。報告者はこのように考え、医療とアートの接点に強く期待する。

報告日:2015年5月24日