多文化共生・統合人間学演習VIII 第1回報告 藤井 祥

多文化共生・統合人間学演習VIII 第1回報告 藤井 祥

日時:
2015年5月8日(金)16:50-18:35
場所:
東京大学駒場キャンパス1号館115教室
講演者:
小林和彦教授(東京大学大学院農学生命科学研究科・農学国際専攻)
主催:
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト2「共生のプラクシス――市民社会と地域という思想」

本演習の第1回では、農学生命科学研究科の小林和彦教授をお招きし、経済成長が頭打ちになった現代の社会における、農業の抱える問題と、打開にむけた取組みについて伺った。

現在の日本の農業は、人口の減少や産業構造の変化により、後継者不足や農作物の価格低迷など、深刻な問題に直面している。また、経済成長にともなって一般にみられる「食遷移」も農業生産に大きな影響を及ぼしている。すなわち、経済的に豊かになるにつれて、初期は穀物の消費が増大するが、発展が進むと穀物消費が減少し、動物性タンパク質や酒類の摂取が増加する。日本の場合、さらに酒類の消費も減少するフェーズに突入しており、稲作を中心としてきた日本の農業は、方針の転換か生産の放棄かを迫られる状況に陥っている。観光地化、大規模耕作による効率化、ブランド化などの取組みによって農村を維持している地域があるいっぽう、耕作放棄地が年々増加していることも事実である。一旦耕作が放棄されると、その土地を再び利用するのが困難になるだけでなく、獣害や水害によって近隣の耕作地にも悪影響を与えかねない。そんななか、小林教授が紹介された2つの事例は、大胆な戦略をもって社会状況に適応しようとする興味深い取組みである。

1つ目は、北海道空知地方と長野県東信地域における日本ワインの生産である。「日本ワイン」とは、原料のブドウを輸入して醸造のみを日本国内で行うことの多い「国産ワイン」とは異なり、ブドウ栽培から醸造まですべての工程を国内で行ったものを指す。本来、日本の気候はワイン用ブドウの生産には向いていない。また、日本のワイン消費量は依然低く、過去の幾度かのブームも一過性のもので、継続的な利益を出すことは難しかった。しかし近年、アルコール消費が低迷する中で、ワインの消費量は微増傾向にあり、高価ではあるものの、高品質の日本ワインが作られ始めている。また、ブドウ農家がワインの醸造まで行ってブドウの余剰を減らしたり、地域で協力してまとまった用地確保を行ったりするなど、効率的な生産に向けた努力が重ねられている。

2つ目は栃木県における完全無農薬の有機水稲栽培である。一般に、無農薬栽培では除草や除虫に大変な手間がかかるものであるが、ある農家では驚くべきことに、除草剤を使用しないばかりか、田植え後の除草すら行わない。田植え前の代掻き(雑草の鋤きこみ)の回数を増やすことや、田植えの時期を遅らせる、水田の水深を大きくするなどの工夫で、雑草の成長を抑制することを可能にしており、無農薬栽培の大きな欠点を克服しつつあるといえる。また同時に、地域の区画整理によって農場を大規模化することで、作業の効率化や農薬の混入防止などが図られているとのことである。

これらの事例は、今後の日本の農業が進むことのできる方向を示すものであるいっぽうで、生産物の販売という側面で大きな課題を抱えている。ワインの事例では、流行による需要の不安定さに加え、土壌の管理が問題となる。日本の気候はワイン用ブドウにとって湿潤すぎるため、樹上の雨よけ(レインカット)や土壌の覆い(マルチ)を用いて水分量を制御することで品質を高める工夫がなされる。しかし、ワイン愛飲家の中には、「テロワール」(原料のブドウが栽培された土地の個性)を重要視する人々が少なからず存在する。テロワールを重視する買い手には、水分制御を用いた農法が日本の土地の個性を反映しているとは見なされない可能性もある。とくに、現在のように日本ワインが高価で取引されている状況を考慮すると、テロワール重視の購買者層への売り込みが不可欠となるので、栽培方法の「自然さ」をどう評価するかが問題となる。

有機稲作の場合は、肥料の投与を必要最小限に抑えており、味が劣るといった問題に加え、通常の栽培方法に比べて依然価格が高くなっている。この費用は、環境の保全や生物多様性の保護にかかっているとみることができるが、そういった付加価値の部分に消費者がどの程度出費するかが、販売の成否を決定することになる。つまり、環境や生物多様性の評価が重要なのである。

いずれの場合も、新しい農業の試みに対する評価が鍵となる。もっと広い視点で見ると、日本の農業の衰退を食い止めることが、生産者と消費者、農業地域の住民と都市の住民、あるいは経済と環境にとって、どのような意味をもつかということである。報告者(藤井)のような生物学者の視点からすれば、人間の手が加えられた農地は、有機農法といえども極めて画一化された環境である。小林教授がいみじくもおっしゃったように、農地の放棄は生態学的にはプラスに働く場合も多いのではないか。もちろん、我々の生活は農業生産に依存しているので、一定レベルの農業は維持すべきであるが、全体として食糧不足に陥ってはいない現在の日本において、生態系を圧迫しながら農地を確保し続ける意義がさほど感じられない側面もある。先に述べたとおり、耕作の放棄された荒地の存在が獣害や虫害によって近隣の住民の生活や農業を脅かす場合は対策を講じる必要があるが、これも荒地が植生遷移を経て森林になり、自立した生態系が構築されれば、そういった害も軽減されると考えられる。

では、農地の維持はなぜ重要なのだろう。この疑問に対して、小林教授は一言目に「荒地に草が生い茂った状態は見苦しい」とおっしゃった。感覚的なものが研究の動機であることは珍しくないが、理由の説明として最初に挙げられたことには驚きを隠せなかった。そのいっぽうで、報告者自身、水田が広がる農村の風景を美しいと感じることも事実であり、荒地が増えることへの不快感にも強く共感する。生まれ育った土地の風景を見ると心が安らぐように、風景を保存することは人間の快適な生活のために重要な側面もあるだろう。だが、風景を神格化してしまってはいないだろうか。神格化するだけでは維持のための費用や人手の確保も難しい。農村の維持そのものを絶対視するのではなく、そこで農業生産が行われることにどのような意味があるのか、例えば、地産地消を推進することで、輸送にかかるコストやエネルギーを低減できるのではないか、あるいは農業を媒介とした地域の共同体としての機能が重要なのではないか。そして、いわゆる「環境保護」の神格化も同時に慎まねばならない。多分野にわたる人々(農業従事者、自然科学者、社会科学者、消費者)が共同で、冷静に考えなければならない問題である。

人口が減少している社会において、現在の生産活動を強引に維持する必要はない。小林教授の言葉をお借りすると、「今までに広げた風呂敷を、今後閉じていく」ことが求められる。どこを自然に帰し、どこを農地、あるいは風景として保存していくか、ということは、その地域の問題であると同時に、日本社会の目指す将来像を描く際にも重要になる発想であろう。限られた資源の中で何を諦め、何を残すか。本当に私たちが必要としているものは何なのか、それはどのくらいの期間で役に立つものなのか、金銭的利益のあるものなのか。もしくはその視点では測りきれない価値をもつものがあるのか、それは説明可能な価値なのか、代替可能なものはないのか。その難しい選択に、いかに広い視点を集められるかが重要となるだろう。そのなかで、報告者のような生物学者は、生きもののもつ力を解明し、それを社会に提示するという役割を担っていることを感じている。

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報告日:2015年5月19日